東京バラック紀行
「そろそろちゃんと取材しておかないと見られなくなるかも」
ということで、戦後に建てられたバラック街巡りに出かけました。
最初は、京王線代田橋駅から歩いて五分くらいのところにある和泉町というところです。
京王線代田橋駅を降り北口を出ると早速昭和レトロな商店街が出迎えてくれました。
その短い商店街を抜けて甲州街道を長い歩道橋で渡ると杉並区和泉。歩道橋の階段を下ったところに「沖縄タウン~小さい沖縄、生まれタウン」というこれだけだと何の事だかよくわからない標識が立っていました。
標識に従って甲州街道を新宿方面へちょっと歩くと、綺麗に緑青に彩られた銅板看板建築があって、その脇が「和泉明店街沖縄タウン」の入り口です。この沖縄タウン、沖縄出身の人がこの辺りに住んでいるというわけではなく、町興しでやっているのだそうで、沖縄学の研究者が近くに住んでいるというキッカケは在るそうです。
戦後のモルタル系看板建築に沖縄の赤瓦の軒やサインが付くと、那覇のコンクリート系建築との組み合わせを想起させ、何となく沖縄に居るように錯覚するから不思議なものですね。
さて、特筆すべきはこの商店街ではなく、その先に在る「バラック街」です。新宿から西へ向かって甲州街道の北側を平行して水道道路が走っていますが、この道路はかつての淀橋浄水場へ水を供給する新玉川上水の跡を道路にしたもので、幹線道路としては環状七号線で終わっています。そして、環七から西は細い通りと特異なバラック街(仮設的な小建築群)になり、和泉明店街を挟んで緑地となります。おそらく、地中には水道管が埋まっているのでしょう。
このような公共的な空地に戦後混乱期バラック街が形成されるようで、日本橋富沢町は浜町川を埋め立てた上、下北沢のは駅前広場の上など。いずれにしても、大変特異な景観です。
↑こんなに小さな住宅もありました。
代田橋駅に戻り、京王線→井の頭線と乗り継いで、吉祥寺へ向かいます。私は調布市の出身ですので、吉祥寺は目と鼻の先、子供の頃から何度も訪れていますが、こと町並みとしては取材していなかった。不覚でした。
まず駅の公園口を出てみる。
繁華街の雑踏の中を路線バスが走っているのには驚きました!
吉祥寺駅北口に移動します。広い商店街に囲まれて小さな木造建築が密集したエリアがある。戦後の闇市から発展した商店街通称「ハモニカ横丁」と呼ばれ人気のスポットになっている場所です。
吉祥寺は、関東大震災で家を失った人たちの移住から発展した町で、駅前の商店街も居住者の生活と密接にかかわり合いながら形成されました。しかし、戦時中には商店街が空襲で火災になり鉄道へ延焼しないように駅前の建物が一旦取り払われます。そして、戦後焼け出された人々が住まいを求め、物資を求め、駅前の空地に闇市が形成されたます。
戦後60年が経ち、各地の闇市からの商店街や飲み屋街が姿を変えていく中、ハモニカ横丁は駅前の商空間に囲まれて今も生きています。
戦争を体験した人にとっては「戦後のバラック」というのはマイナスイメージだと思いますが、戦争を知らない今の人々にとってはどこか懐かしい独特な空間、他では味わえない空間としてプラスイメージになっているのでしょう。事実、私もその一人です。ハモニカ横丁は魅力を増して多くの人々を惹きつけています。
吉祥寺北口の象徴サンロード。たくさんの人でごった返してました。
人混みを嫌って移動します。中央線で二駅、荻窪です。ここも仕事で通っている場所ですが、駅北口の銀座街を取材していなかった。
この街も吉祥寺のハモニカ横丁と同様の成り立ちで、戦後の闇市から発展した商店街。今でもバラック建築が集まっています。
単に古臭いだけだった銀座街も、バブル期に巻き起こるラーメンブームの時は火付け役となり「荻窪ラーメン」で有名でした。
今の荻窪銀座街は、吉祥寺ハモニカ横丁ほど人は訪れていませんが、変わらず特異な空間を味あわせてくれます。
一方、青梅街道を荻窪駅前から西へ進むと、沿道に戦前の銅板看板建築をいくつも見ることができます。仕事で通った際に気づいていました。テクテク青梅街道を西へ八丁まで歩きました。
さて、もうちょっと町歩きを続けようかなと思いましたが、脚も疲れたし、とにかく寒いしで、15:00には家に戻りました。
Canon G7xの筆下ろしとしては、良い旅だったです。緑とピンクの色合いがいいカメラです。
by marunouchi_no1 | 2015-02-01 20:37 | 東京都