海界の村を歩く 太平洋 三宅島(東京都)
御蔵島から眺めた三宅島
朝降りた船が八丈島を往復して、12:35御蔵港にやってきました。隣の三宅島まで約1時間です。
三宅島伊ケ谷港では数名が降り、民宿夕景のお兄さんが迎えに来てくれていました。民宿のある阿古地区で荷物を降ろして、クルマを借りて島を周ります。
東京の南約180kmの太平洋上に位置し、雄山(813m)を中心とした、東西7.5km、南北8.6kmの火山島。自然環境に恵まれ、緑も豊かで、バードウォッチング、磯釣り、ダイビングのポイントが数多く点在する。そして最近ではイルカウォッチングも加わった。江戸時代は流刑の島となり、1400人ほどが流されている。約50年おきに大噴火を繰り返している活火山で、昭和58年10月の噴火で、南西部の阿古集落が溶岩で埋まり、火山湖沼の新澪池も様相を一変させている一方で、天然記念物アカコッコなどバードサンクチュアリの名に恥じない花と鳥の島だ。(「シマダス」より)
阿古地区は三宅島最大の集落。かつては温泉街もありました。しかし、昭和58年の雄山の大噴火で溶岩が流れ街を飲み込んでしまった。
その時の小中学校の校舎がそのままになっていて、噴火の恐ろしさを今に伝えています。
在りし日の阿古集落。昭和58年の大噴火の時、余震があって集落の住民はバスで避難場所へ移動しつつありました。そして、最後のバスが立った10分後に溶岩流が襲ったそうです。間一髪! 住人の犠牲者はゼロだったそうです。よかったですね。
溶岩流からかろうじて免れた集落の一部があります。写真手前は溶岩流跡、奥は免れた家々。
どんな災害の被災地にも免れた街はある。そこが、過去からの記憶をつないでくれる。
東海汽船の大型船さるびあ号が着岸する港のある伊ヶ谷集落。幕藩時代から重要な港だったそうです。赤茶色の切石による石垣石塀が見られます。
伊豆諸島ですね、伊豆半島にもこのような石垣石塀の集落があります。
集落は急斜面にあるので、屋敷地がひな壇状になっていて、石垣が共通した特徴になっています。
同じ石を使った石橋。
島の北にある大久保浜海岸。海水浴場があったからか、低い平らな場所に集落が形成されており、旅館だった建物も複数見られました。
大久保浜の町並み
島の北、神着(かみつき)地区の旧島役所跡にある古民家。現存する伊豆諸島最大の木造建築。
神着集落。石垣石塀が集落の統一感によく効いている。
島の南東部にある坪田地区。ドーンと御蔵島が横たわっています。
島の高いところにあるくせに塀が防波堤ぽいのはなぜでしょうか。石塀の代わりということかな。この集落は明日朝再訪したいと思います。
集落の一番端の民家。
おや?赤提灯がぶら下がってる?
なんと居酒屋でした(^O^)
こんなはずれで誰が来るんでしょうかぁ
日が変わって、今日は昨日と逆に島を反時計回りで一周します。
島の南にある大路池。二千年前に水蒸気爆発でできたカルデラ湖だとか。周囲の森は天然記念物のアカコッコなど野鳥の宝庫。
坪田地区再び。昨日は県道より海側でしたので、今日は山側です。
溶岩で築かれた石垣石塀や石畳が見所の集落。
このようなたちの低い石塀やコンクリート塀が屋敷を取り囲んでいます。
石蔵があった。
万が一の噴火や家事から守るための石蔵も噴火で生成された溶岩でできています。
島の東、1940年、1962年と2回の海中噴火でできたひょうたん山。
2000年の噴火で土石流にのまれた椎取神社。今の神社はその後の再建。周りはスダジイの森で、土石流によって覆われた根が呼吸できなくなり、樹々は立ち枯れました。
雄山全景。三宅島はこの山とともに暮らしてきた。時に恵みを、時に試練を。
再び、阿古集落跡。
温泉郷があり島一栄えていた集落だった。
1983年の大噴火前
大噴火による溶岩流の様子
三宅島の人々は常に噴火とともに暮らしてきたんですね。
by marunouchi_no1 | 2016-06-11 18:06 | 東京都