海界の村を歩く 瀬戸内海 祝島(山口県)
(画:Kさんこと岸本信夫画伯)
そのグループが、13年を経た現在も続いている町並みWeb集団「いらかぐみ」です。私もその時以来の再訪となります。町並みの迫力はよくわかっていますので、今度はどんな刺激を受けるのか楽しみです。
柳井からのびた半島の先端にある上関町室津に着きました。すぐ目の前に長島があって、上関の街が見えます。互いの街は大橋で繋がれていて、帆船時代の重要な港でした。
2003年時もいらかぐみのみんなで歩いた街。しかし、こんなに目立つ四階楼だけど、あったっけ?
室津の町を歩きます。町家が並んでる。明らかに漁村ではない港町の形態です。
棟と棟の間に不思議な外装があった。鋭角な入り角になっていて、腰板が化粧されている。面白いです。
いい町並みですが、ことごとく覚えていない。あの時、街のガイドさんに案内されて歩いた、つまり自分で考えて歩いていないので、記憶に薄いのかもしれません。あるいは単に年齢からくるものか。
格子を留める銅の鋲が綺麗でした。こういう繊細な格子も上方と行き来する北前船がもたらしたものなのでしょうか。
傷んでいますが、古い瓦屋根。神社の境内から。
ここから先は斜面上の集落になり、岬の尾根線を越えて反対側の海岸線まで下りています。
海峡の対岸、上関の街を歩きます。この特徴ある菱形窓の付いた町家はさすがに覚えてた。この家の脇から斜面を登る方向に街が展開します。
この斜面上の街も尾根線を越えて反対側の海岸線まで下りていました。
さて、上関港より祝島に渡ります。高速艇で20分。船は柳井港が始発で、室津⇨上関⇨蒲井⇨四代⇨祝島と幾つかの港に立ち寄っていきます。
結構混んでる。
◇祝島
上関港から南西16kmの波高い周防灘の東端にポッカリと浮かんでいる周囲12kmの島。祭祀が行われていたらしい巨石群もあり、古来行き交う航行安全を守る神霊の鎮まり給う島として崇められてきた。このことは都にも広くしられていて、「万葉集」にも登場する。今から、1000年以上前から伝承されている無形文化財「神舞神事」も四年に一回行われている。江戸時代には岩見島と呼ばれていた。かつては冬期に酒造杜氏として各地で出稼ぎをすることで知られていた。主産業は農漁業。ビワ、ミカン、サヨリ、タイなど特産品も豊富で、現在ブランド化を進めている。独特な石垣をめぐらせた町並みが美しい島である。
祝島港の船着場から早速集落内の道に入る。いきなり練塀です。
集落を貫く横道はメインストリート
横道からある家の屋根の下をくぐって、細い縦道に入る場所あり。密集系漁村といえばそうですが、集落全体にグレード感があります。繁栄した集落に共通する何か。
漆喰で作られた猫ちゃん。職人さんが遊びでこしらえたのか。
横道をどんどん進む。こういう練塀の無い空間が珍しく感じます。
窓が漆喰で埋められた跡。アートのようです。
この一角が一番景観的にいい!でしょ!
冒頭のKさんのスケッチはこの場所です。ホント美しい景観です。
どこもかしこも絵になりますなぁ。
あるお宅を入り口から覗かせていただきました。練塀の役割は防風対策。中はこのような庭があって、そこから各建屋に入ります。
2003年に泊まった民宿くにひろ。今回、手違いで泊まることができませんでした。2003年当時、息子さんがネットで民宿を紹介されていましたが、現在はその息子さん夫婦が民宿を営まれていました。ラジオ番組で奥さんのインタビューを連載していたそうですで、その内容が本になって発行されていました。
http://www.iwaishima.jp/minsyuku/
上関に戻りました。これから、長島の2つの集落を歩きます。四代集落は、島の東岸先端にある漁村で、祝島航路も立ち寄る港です。陸続きの四代になんで船が寄港するのかと思ってましたが、答えは単純。至る道が細く険しく、船の方が便利だからです。ただ、道路は途中の蒲井まで整備が進んではいますが。
練塀は見られませんでしたが、石垣は見事です。
港近くに下見板張の洋風な民家がありました。
長島四代集落、そこそこです。
次に島の中部西岸に移動。写真の眼下に広がる長島白井田集落へ。
集落は平地のエリアを中心に斜面へ駆け上がる形態。つまり人口が増えるに従って平地が埋まり、斜面上を開発していったものでしょう。それだけ、過去において栄えていたということになります。
港近くに練塀の家屋がありました。祝島の練塀は台風や季節風を対策する目的であると言われていますが、この白井田集落も同様に北西に海を臨む斜面、同様の防風対策から築かれたのでしょう。
ただし、使われている石が違います。祝島は波によって削られた丸石でしたが、白井田では割石でした。印象が異なるものですね。
もう一軒ありました。軒下の壁にも使われています。瓦屋根との組み合わせも美しい!
さて、斜面に駆け上がる集落を上ってみましょう。
見てください、この斜度。
そして、城郭のようにそそり立つ石垣。この急傾斜なエリアは端っこになりますので、やや時代が新しい大正から昭和のものかもしれませんが、広島県呉にある大正期の住宅地「両城」に近い迫力です。
なぜそこまで造成のための石垣が高くなるのかといえば、1つ1つの宅地を大きくとっているから。つまり、急傾斜地上でありながら、庭を持っているからなのです。それだけ漁業で栄えたのでしょう。この写真の家のように鏝絵が見られるのもその証かもしれません。
星4つ!いい集落を見つけました。
by marunouchi_no1 | 2016-07-21 08:13 | 山口県