復興の町を歩く 熊谷〜平塚(埼玉県・神奈川県)
2016年もあと30時間で終わる。熊谷の夜です。
駅周辺は繁華街というより歓楽街。なんででしょうか。
飲食店街と色街がごった煮になっている。晩飯をどこで食べようかと飲食店を品定めしたいのに、いちいち呼び込みのにいちゃんやお姉さんに声かけられる。鬱陶しいので、結局駅前ビルの鳥飯屋に入りました。
大晦日は埼玉県熊谷と神奈川県平塚を歩きます。
旧中山道の宿場町としての発展し、近代は工業都市として発達した熊谷。戦災を受け戦後復興しました。
戦災都市地図の中の緑ラインが旧中山道で、戦災復興により国道17号線がバイパス化されることなく旧街道の線形で拡幅されました。左上の旧街道が鉤型に折れているあたりに熊谷寺(ゆうこくじ)があります。
斜めに走る旧街道により鈍角の交差点が生まれ、看板建築が面してる。
後ろはとっても複雑でした。
旧中山道であり国道17号線でもある大通り。町割りが街道に対して直角じゃないので、こういう左右非対称なモダニズム看板建築が生まれております。
駅前大通りは駅から真っ直ぐ国道17号線に向かってのびています。そこに面する看板建築。ボクシーですね。
この国道17号線には、戦災にあっているにもかかわらず、戦前建築が点在して残っています。おやと思い戦災都市概況図を見てみると、戦災は所々になっている。なるほど残っているんだ。
しかし、道路は拡幅されているけど、、、おそらく曳家したのでしょう。震災復興の東京昭和通りでも、沿道の建物を曳家して造った。
戦災地区を外れるとこうして戦前の民家が現れます。
国道と直交する大露通り商店街の入口。
防火建築帯のような細長い建物。モダニズですね。
その向かい側は看板建築。
国道17号線をどんどん歩いてきたら、地元のでかいデパートが建ってるじゃない。なんでこんな辺鄙な場所に?いえいえここが熊谷の中心で、旧中山道沿いに町が発達していました。駅が離れてできて、その間が近代の街として形成されたのです。
戦災復興でつくられた、真ん中に川の流れる通り。
近代に形成された街は、周辺の工業立地と共に発達。戦災と非戦災が入り混じる独特な街になっていました。
埼玉県熊谷から圏央道で1時間半、一気に南下して神奈川県平塚です。旧東海道の宿場町にして工業都市でしかも戦災にあってる。熊谷と似たような境遇の町。
それゆえ、駅周辺は商業と色街のごった煮具合が似てます。
旧東海道沿いは道幅が広いアーケード商店街。
旧街道の宿場町らしい商店街並んでいます。しかし、拡幅された道幅は界隈性がないなぁ。
一本南の通りの方が歩行者天国でいい感じかな。そこにあったジモティの集まるカフェでランチ。
これは戦災を免れた建物でしょう。角Rのモダンなスタイル。
その通りを裏から攻めると、、、
表は看板建築でも裏は木造丸出し。戦災に遭っていても、戦前の町家や石蔵なんかが僅かに残っていました。
紅谷町は色街。その真っ只中に建つタワーマンション。
北の平塚八幡宮へ向かう参道。
レトロな建物が見られます。
そして、旧東海道の北側の明石町。そこも、夜の飲食店街でした。需要があるんだなぁ。
色街の真っ只中のタワーマンションに住んでる妹を呼び出しお茶して帰ってきました。住むにはちょっと落ち着かない町じゃない?
by marunouchi_no1 | 2017-01-01 14:19 | 埼玉県