復興の町を歩く 本所・徒蔵(東京都)
(本所)
戦災復興の町を歩くと必ず出会うのが、いわゆる看板建築。延焼防止の防火対策と陸屋根への憧れから誕生した木造町家の様式です。各地の復興の町で出会うこの様式が、どのように発展して来たのか、歩く程に気になってきました。
そこで、戦前戦後の看板建築を対比すべく、全国一の看板建築密集地帯と言って良い台東区御徒町と蔵前の間=通称「徒蔵(かちくら)」と、合わせて未探訪の本所:両国・押上間を歩こうと思います。
大江戸線両国駅からスタート。清澄通りを北上しながら、蔵前橋通り・春日通り・浅草通りを往復です。結構時間かかりそう。
まずは横網町公園から。関東大震災の時にこの公園に避難した3万8千人は、大火に飲まれ犠牲となったという痛ましい場所。東京都慰霊堂(大正5年:伊東忠太設計)が、震災の犠牲となった方々の魂を鎮めています。
東京都復興記念館。同じく伊東忠太により設計され昭和6年に完成開館しました。東京は、震災からわずか22年後の第二次世界大戦の大空襲で再び焦土と化します。その戦禍の中でも、本所エリアは酷くほぼ全域が戦災を受けました。
この公園に来ると気持ちが沈みます。しかし、22年間に2回まっさらになった東京。その復興魂はすごいとしか言いようがありません。その町を見ていきましょう。
戦災地区:本所・蔵前橋通り北側の町並み
右の町家は看板建築じゃないけど、擬石が見事。戸袋に凝るのは戦前の銅板時代から変わりませんね。
戦災地区:本所・蔵前橋通り北側の町並み
看板の真ん中だけが高くなっているのはなぜでしょう。こういうのは大抵切妻妻入です。屋根の棟の高いところを隠すため。結果的に左右対称になっている。
蔵前橋通りから南に入る通り
モダニズム系額縁型とでもいいましょうか。それでもわずかな軒先に瓦を使うのはなぜ?
清澄通りの町並み。可愛らしいですね。
春日通り北側の町並み
背後にスカイツリーが迫ってる。
春日通りから北へ入った通り
戦後のあっさりした看板建築。
以前、ローマン瓦は戦後と聞いたことがありますが、、、
吾妻橋
浅草通り(スカイツリーの南側の東西に走る通り)には目ぼしい町並みはありませんでした。
向島1丁目の非戦災地区
非戦災地区に入ると一気に木壁が増える。
向島1丁目。スカイツリーとの対比が面白い。
向島1丁目の三ツ目通りの町並み
出桁造りの町家が数軒見られました。
隅田川を渡ります。最近、「かちくら」と呼ばれる御徒町と蔵前の間のエリアを歩きます。このあたりの非戦災地区は何度も歩いていますが、今日は戦災地区に着目して戦後の看板建築テーマで歩きます。
上の空中写真で、濃い黒のエリアが非戦災地区(瓦がグレーのため)ですが、そのエッジを戦災地区と非戦災地区を行ったり来たりしながら、浅草橋スタート。
浅草橋5丁目の戦災地区
いきなり取り扱いに苦労する建物に遭遇。戦災地区なんでおそらく戦後だと思うんですが、デコラだなぁ。
その裏。サイドカーと町並み、ナンジャ。
浅草橋5丁目の非戦災地区
この通りの反対側は戦災を受けている。エッジに残る戦前の銅板看板建築。
浅草橋5丁目の非戦災地区
非戦災地区に入ると外装が金属になるなぁ。
鳥越1丁目の非戦災地区 おかず横丁の入口
銅板と擬石看板建築が迎える。
鳥越1丁目の非戦災地区 おかず横丁の町並み
屋根裏部屋(ほとんど三階)の看板建築と金属が多い!
鳥越1丁目の非戦災地区 おかず横丁の町並み
擬石は装飾のあるものが見られる。こうなると戦前だと決めつけてしまう。
小島1丁目の非戦災地区
ここも金属だぁ
鳥越1丁目の非戦災地区
???
小島1丁目の非戦災地区
やっぱ金属系だぁ。銅板じゃなくスレート板だけど。戦前からスレート板が使われていたのか。
佐竹商店街は戦前からある古い商店街です。そこに昔の写真があった。明治40年代はさすがに看板建築はなく、出桁造りの町家が並んでいる。
昭和11年で看板建築が並んでる。擬石や銅板が見える。
三筋二丁目の戦後の看板建築
さて、まとめてみますか。戦前と戦後の看板建築比較して何が違う?
銅板は戦前、モルタル吹き付けは戦後というのは言えそう。しかし、擬石は戦前からあり戦後まで使用されている模様。装飾を取り除いたモダニズム系の擬石看板建築は戦後の特徴ですが、戦前から見られる模様。ただし、古典様式が若干でも入っているものは戦前かなぁ。そして、金属は戦前の可能性が高い。
こんなところでしょうか。まぁ、研究者の論文でも読めば答えが書いてあるんでしょうけど、自分で見つけるのが楽しいもんで。
by marunouchi_no1 | 2017-02-11 22:02 | 東京都