(松島の旧松島炭鉱施設跡)
2017年のGW。中日の2日を休めばなんと9連休です。会社出ている方には申し訳ないですが、休んじゃいました。最初の3日間は現在取り組んでいる論文に集中。そして残りは旅です。目的地は長崎の離島。なんせ、離島の数は長崎が全国一ですから、まだまだ終わりません。
今回は、西彼杵半島西側の炭鉱の島(4度目にして完結)と五島列島のマイナーな島たちです。西彼大島、松島、奈留島、久賀島、黄島。どうです全然聞いたことないでしょう。最後に長崎の斜面集落と中心市街地を歩き回ります。脚がもつかなぁ。
長崎空港でクルマを借りて、大村湾を反時計回り、橋でつながっている西彼大島へ渡ります。ここは、寺島→大島→蠣浦島→御床島と四島が橋で連結してます。画像は一番奥の御床島。なんてことない集落ですが、海岸沿いの石垣が特徴的でした。
西彼大島は蠣浦島とともに、かつては炭鉱の島でした。松島炭鉱(株)は、最初に松島を開発しましたが、海中の炭鉱だったため戦前の崩落事故で多くの死者を出し閉鎖、続けて西彼大島・蠣浦島と池島を開発しました。
でっかい造船所!
1930年代から1970年(昭和45年)まで、炭鉱からの石炭産出が島の産業の基幹となっていた。1970年の閉山後は企業誘致に務め、1972年(昭和47年)から大島造船所が操業している。現在は農漁業と大島造船所における造船が主産業。(Wikipedia 参考)大島の中心市街地。と言っても周りはひたすら造船所の社宅ばかりです。そこにスナック街の入り口がある。
ゲートくぐった直後にいきなりこの階段。上に遊里があるのか?
おおっあったぁ
まさに遊里っぽい建物です。無駄にデコラティブ。
池島の炭鉱町から既成の集落へ下る坂道にもこういう感じの有里があったなぁ(↑画像)。
そして、こんなデッカイ妓楼のような建物まであった。
一旦さっきの入り口の反対側にある坂を下り、今度は中央商店街というのを歩きます。そこも最初は飲屋街。
坂を登っていくと、、、
お店に物販系が混じり始めた。
そして画像の先、登り切ると比較的大きなスーパーマーケットがあって、造船所を見下ろす感じに。おそらく、スーパーマーケットは会社の購買部営業でしょう。
大島を後にし、大瀬戸町まで南下して船で松島へ渡ります。松島は船着場と反対側に炭鉱施設の遺構があり、歩いてはとても無理なので、フェリーにクルマを載せます。
西彼杵半島のほぼ中央部の西側にある島。肥前大村藩領の48ヶ村の一つで、昭和30年までは一つの村だった。松島と呼ばれるわけは、昔は島中が松林に覆われ、人家を見なかったためといわれる。江戸時代は長崎に出入りする異国船警戒のための番所が置かれ、捕鯨の基地として栄えたこともある。天明6年(1781)に初めて石炭が掘り出され、以後石炭の島として知られるようになった。松島炭鉱が経営にあたった大正初期~昭和初期が最盛期で、大正末には人口13000人を数えたものの、昭和9年の大水没事故で閉山となった。小規模な採掘は続けられたが、昭和38年に終掘している。その後、昭和48年秋のオイルショックによるエネルギー資源多様化政策で、昭和52年から建設された国内初の100万KW石炭専火力発電所により、エネルギーアイランドとして生まれ変わった。(「シマダス」参考)おお、これが石炭による火力発電所か!物凄く大きい。
島の北側にある釜ノ浦集落。島で一番大きな集落でしょう。
まず、海から集落に向かって左手のエリアから歩きます。古くはなさそうだ。
港にあった集落のマップ。ところが、昭和初期のもの。家に色分けがされていて、凡例に「ピンク=遊郭」とある。街中に点在している。炭坑で潤った時代が偲ばれる。
海から集落に向かって右手のエリアは、通りに面して平入の二階家が並んでたりして、ちょっと雰囲気があります。
島を時計回りに半周すると洋上に池島が現れた。2年前興奮のレポをお送りした炭鉱町の島。
そして振り返ると、ジャーン!いい集落見っけ!
この建物の一部の壁を石垣で造る形式は、
西彼杵半島西岸旧外海町(↑画像)でみた様式と同じです。
いやぁ良かったぁ。クルマ積んできて正解でした。
そして、旧松島炭鉱の施設の遺構。明治期に操業が開始されたというのが頷ける煉瓦造建築です。坑道が全て海底というのもすごいなぁ。
一周して帰ってきた石炭の発電所。石炭置き場が超でっけぇ!
by marunouchi_no1
| 2017-05-02 20:05
| 長崎県