(長崎市築町)
テーマが多岐にわたってしまいスイマセン。長崎はそれほど濃いもんで。今度は長崎の非戦災地区のレポです。
画像は長崎の戦災都市概況図です。長崎は6回の空襲を受けましたが、大きかったのはもちろん原爆でした。赤丸が原爆によって建物が全焼全壊した区域、次の輪が全壊区域です。爆心地は浦上にある現平和記念公園。たった1つの爆弾ですよ、本当痛ましい。
これは中心市街地をアップにしたもの。長崎は北から伸びる台地が海に突き出していて「長い崎」となっていたからその名がついたんですが、その台地の部分までが全壊で、台地の東側のエリアは半壊または一部損壊の区域になっています。
この図は戦災復興地区の図。赤いライン内が戦災復興地区です。つまり、それ以外はあまり戦災を受けていないということ。広島とは大違いです。なぜそうなったのか。それは、長崎の得意な地形にあります。長い崎を作った標高200m級の山からの尾根線が盾になって、東側の市街地を原爆から守ったのです。
台地の先端にある県庁前からそのエリアを歩きましょう。
この絵は江戸時代の全く埋め立てとかしていないころの長崎の絵です。台地の上に町があって、低地は海か湿地帯。
南蛮貿易のころの絵図。県庁前から現在の大波止交差点へ向かって下ったあたり、古い県庁の建物が残っている場所が船着場だった。向こうに出島が見えます。
県庁前から築町へ下る坂道は古くからのもので、現在は江戸町商店街となっています。
坂道の町並み。これは戦前か戦後かわかりませんが、
坂を下りきった交差点に建つこの2つの建物は、明らかに戦前でしょう。戦災を免れたんだ。
下の画像のラーメン屋に入った。マーラー担々麺うまかった!
おおっ、やはりありますね。大正から昭和初期かな。
ここにも市場がありました。戦災復興期に生活を支えた市場。だいたい、戦災を受けたエリアと免れたエリアの境界線にあります。
築町には蒲鉾屋さんが多い。
江戸時代に築かれた石垣。この下は海あるいは湿地帯でした。
中島川の東側を歩きます。
東西にのびる東古川町。町家が割と残っている。
長崎では川より小さく側溝より大きなものを「えご」と言います。その脇の道を「えごばた」というそうです。
東西の道は、一方は中島川の石橋に、一方は寺町のお寺の山門に通じています。
そこを南北に貫く道が中通りで、商店街になっている。この商家は中通りに正面向いているので、南北の軸の方がメインの通りだったということでしょうか。
美味しそうなお饅頭屋さんがあった。思わず買ったべ歩き。
中通りをまっすぐ行くとシーボルト通りにぶつかります。シーボルト通りも賑わった商店街です。そのシーボルト通りを東へ行くと、小倉まで通じる長崎街道になります。
これから、市街地を原爆から守った山に上ります。山といっても長崎では住宅地が広がっている。あまりにも高低差があるので、バスで中腹まで上ってから歩いて下りてこようと思います。
中央橋から立山行きのちょっと小ぶりのバスに乗り、浜上町というバス停で降りました。長崎の街と港が一望です。こんな高いところまで、下から街が駆け上がっているのです。
浦上方面を眺める。写真じゃなかなか高さが伝わりませんが、天界の住宅地です。
中腹の道路のバス停で降りて、この急階段を下って家に行く。大変だなぁ。
尾根の東側に広がる天界の住宅地=立山町。下の町がさっき歩いた非戦災地区です。
斜面に建つマンションに上って、外廊下から山側を撮る。まだ上へと住宅地は広がっている。
山岳集落ならぬ山岳住宅地。クルマの入れないエリアがこれだけ広がる都市あるいは集落というのは、他に見たことありません。
下からクリマで上って来られる道が一本あって、ここから先は階段っていう場所に「斜面移動システム」という乗り物がありました。乗れる人は専用のカードが必要。
吊り下げ式のおひとりモノレールです。いやぁ、大変な町だなぁ、長崎は。
これにて、西彼杵→五島→長崎旅を終えます。