
(松山市 銀天街)
2017年7月13日。関東地方では全然雨が降らないけど、いったい梅雨は明けているのかいないのか。九州南部では、今日をもって梅雨明けと宣言されました。これから向かう愛媛県松山市から高知県宿毛市にかけては、梅雨明けはまだのようです。

愛媛県はここんところ良く行くなぁ。四国西海岸は今回でとりあえず完結です。松山の「復興の町」、佐田岬半島の「天界の村」、沖ノ島&鵜来島の「海界の村」を立て続きに歩きます。では、まず復興の町=松山から。

夕方入って松山市駅前の東京から予約しておいた居酒屋で軽いディナー。夜の街をブラつきます。

松山市駅前から真っ直ぐ東へアーケード街が延びている。「銀天街」です。銀天街といえば、北九州小倉が最初に命名されたと聞いていますが、戦災復興の象徴的な商店街です。

戦災都市概況図によれば、松山の中心市街地は、松山城のみが燃えておらず、城をグルッと一周焼失した赤い表示になっている。

左が銀天街

右が大街道方面
銀天街の東端で、アーケードは直角に北へ曲がります。ここからさらに繁華街のコアである大街道方面へ。


大街道アーケード街の周り、特に東側に四国一とうたわれる夜の飲食店街が広がっています。明日、昼間にじっくり歩きましょう。

大街道アーケード街の北ゲート近くにあるダイワロイネットに宿をとっていました。さぁ、まずは昨夜歩いた繁華街から攻めましょう。

大街道商店街。これだけ立派なアーケードはなかなかないなぁ。


戦後らしい建物。以外にも看板建築ではない。

アーケード東の夜の飲食店街。やっぱり夜の方が迫力ありますね。


千舟町2丁目の怪しげな町並み。いかにもブルーラインといった佇まい。でも、バラッキーなのはこのあたりだけでした。空き地になってるところにもあったのかなぁ。

雰囲気あるネオン看板。ラブホなんかもありますから、旧ブルーラインエリアなのかな。




大街道の一本東側を並走する通りには、古そうな町並みがあった。ここだけ戦災を免れたのかな。


暑くて死にそう、、、伊予柑ジュースで体を冷やす。

千舟通りから南は銀天街です。アーケードのグレードが下がったイメージ。

銀天街が90度折れ曲がるあたりに味わい深い町並みがあった。

折れ曲がるところから南へ続く道。

中の川通りを渡ると戦後モルタル系看板建築がならぶ町並みが見えた。柳井町商店街。


柳井町商店街は緩やかにカーブして南下します。ここには、戦後の看板建築が見られる。

和歌山市駅から伊予鉄道郡中線で一駅、土橋駅で降ります。伊予鉄道の車両は懐かしい京王線7000系のお古。

土橋駅のすぐ裏に妙な建築群があります。モルタル外装の総二階建が規則正しく並ぶ一角。

二本の通りがあって、一方にのみ店の看板が見られました。住んでいる家は数軒だけと思われます。かつてはブルーラインだったと言われています。あまり気持ち良い空間じゃないので、取材は控えました。

城下の北西部である古町や本町を歩きましたが、見所なし。高砂町電停から路面電車に乗って、道後温泉へ。


道後温泉の周りの道路整備によって、かつて正面玄関前にあった車道が無くなってます。いいことです。人がいっぱいいるんで、道後温泉には入らず。今までも何度も来てるけど入ったことなし。


アーケード街周りを歩き直しましたが、あまり収穫なし。前に取材した旧遊里にネオン街も遂に古い建物が無くなってました。

まだまだ時間がある。城に登ります。ですが、ここでも城の中には入らず。どうも、プライベートだと建築の中に入りたがらない。仕事モードになるのが嫌なんです。


城下の大街道。古い町家があるのは、城で空襲の火の粉が遮られたからなのかもしれない。


伊予銀行本店。旧館は長谷部鋭吉設計。新館は日建設計かなぁ。どちらも名建築だと思います。



愛媛県庁。よーし何年か当てよう。様式や外装材から昭和初期、でも帝冠様式じゃないから昭和3年くらいかな?正解は4年でした。
ここは中に入ってみましょうか。



おおっ綺麗。



注意されずどんどん入っていける。

吹き抜けの最上階にぶら下がってるみたいなこの箱はナンジャ?


何とペントハウスにある会議室へ上る階段でした。
愛媛県庁は、デザインもいいけど維持保全状態もいい、感激しました。

復興の町:松山は、いわゆる闇市からのバラック街の市場や横丁が全く見られませんでした。一方、防火建築帯なんかもなかった。モルタル系看板建築がちょっとあるくらいかな。