(飯田の裏界線)
長野県の北端に近い飯山に居ます。これから、南端に近い飯田まで長野県を縦断します。
ところが、自身の飯山のDataBaseを見てみると写真が2枚しかない。これじゃあかんと、飯山発の北陸新幹線を一本遅らせて、飯山を歩くことにしました。
先ず、飯山駅から旧飯山街道の端っこまで移動。雪国らしく融雪装置がある道、赤錆で道路が真っ赤です。
かつてはずらっと雁木が連なって居たと思われますが、今やトビトビ。前回2000年に歩いた時から、さらに減った気がします。
でも、まだこの繋がっている見どころは失われていなかった。よかったぁ。新幹線が通じても、この旧飯山街道沿はあまり整備されていません。
今時の雁木=アーケードの中心市街地。
旧飯山街道は、飯山線を渡って山裾を北東へ向かいっています。そこに「雁木通り」という今までしらなかった町並みがありました。
ここは、城下町の中の寺町で、仏壇屋がズラリと並んでいます。そして、雁木は全て新しいもの。こここそ、新幹線開業に合わせて整備したような町並みです。新しいけれど中々良い!データベースには独立して載せましょう。
山裾には寺が沢山ある。
北飯山駅から飯山線に一駅分乗りました。
飯山駅で昼メシの「おやき」を買って、さぁ信州縦断だ!
飯田に着きました。4時間強。飯田線の岡谷〜飯田が2時間かかりました。駅数は多いし、スピードは鈍いし。帰りは高速バスにして正解だ。
駅前のラーメン屋さんでランチの後半戦。若い人が始めたラーメン屋さんで、オーソドックスな感じでGoodでした。
飯田の市街地は、天竜川と支流の刻んだ河岸段丘の上にあります。ですから、周りが崖で囲まれている。飯田駅から段丘の先端の飯田城址に向かって、街を練り歩きます。
飯田大火は1947年(昭和22年)に発生しました。中心部約60万平米が焼失してしまいました。
↓下記Wikiに掲載されている空中写真で薄いところが焼失エリアです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E7%94%B0%E5%A4%A7%E7%81%AB
復興のまちづくりは、大火の教訓を生かしたものでした。市街地を4分割するように延焼を食い止める大通りを十字に整備したこと。
そして、もう1つが「裏界線」という幅2mの避難路を街区の中央につくりました。面する敷地の一部を提供し合っているようです。
さて、駅を出て街を歩きましょう。駅近くにある栄小路という飲食店街。
旧大平街道知久町の町並み。アーケードに看板建築の町並みが形成されています。
知久町1丁目には、知久1横丁という一角があり、なまこ壁の蔵が並んでいました。
裏界線を挟んで建つなまこ壁の蔵
銀座通りと知久町通り(旧大平街道)の交差点=銀座四五交差点。木村屋さん、大火前っぽい。
銀座四五交差点のすぐ北は台地の縁です。視界が開けた。
眼下の町。酒屋があるのかな?中々良さそうな町並みに見えるけど、このクソ暑い中、あそこへ降りる気が起きない。
河岸段丘の尾根線の先っぽ。かつては、飯田城の中。飯田市立追手町小学校の立派な校舎は、大火前だ。
飯田市立博物館。原広司設計のポストモダン。何度か見に来たなぁ。かなり年季が入って来ております。
尾根道の北側もすぐに絶壁になっている。谷の向こうにはもう1つの市街地の台地があって、斜面に建物がへばりついている。
丘上の合同庁舎裏から見る。斜面の建物、どうやら崖屋造りの木造三階建てのようです。造りが旅館や妓楼っぽい。コリャあやしいぞ。
ん?
おおっ!
コリャ遊里でしょう。
ほらぁ、飯田市くつわ小路だって。
建物と建物の間には、谷に降りる階段がある。コワイ。
となると、丘の上はなんだぁ?
馬場町通りという崖上の通りには飲食店が多い。
営業してなさそうだけど、あやしい意匠。
仕出し屋もある
実はこの丘の上には二本松遊郭=飯田遊郭がありました。「全国遊郭案内」によれば、貸座敷10軒、娼妓110名を数えたといいます。今や面影は無し。
遊郭の近くに形成されている崖中のくつわ小路は、おそらくブルーラインだったのでしょう。
谷の北側の台地上の町は大火を免れました。馬場町の一本北側の仲の町は、古い建物が残っています。
飯田の中心市街地の中ではこのあたりだけかな。
銀座通りに戻って来ました。
こうして一周してみると、飯田の特徴はなんといっても地形。それが、大火、遊里云々に影響しているのです。