(宮城県塩竈市朴島)
野々島の端には浦戸中学校があって、その学校下の桟橋から隣の寒風沢島と朴島への渡し船が出ている。何と無料(市営)であり、通常は野々島に待機していて、対岸から電話一本で呼ぶことができる。
野々島の学校下の桟橋。対岸の見えるは寒風沢島。すぐそばである。
6月末だけど真夏のような猛暑日。寒風沢港の待合所でいっぷくする。
寒風沢島
浦戸諸島の中では一番大きな島。ここは数々の歴史が語り継がれている。江戸時代は伊達藩の江戸廻米の港として栄えた。当時の港の繁栄を今に伝える十二支方角石や縛り地蔵などの遺跡・文化財が日和山展望台にあるほか、道を歩けば化粧地蔵、六地蔵をはじめ、沢山の野仏や石碑、道祖神を見ることができる。(「シマダス」参照)
寒風沢島の集落は、寒風沢水道に面する一ヶ所だけにある。大津波が押し寄せたのは島の反対側だったからか、集落内の古い建物も残っているようだ。
看板建築の商店。
この建物も古い。注目は手前の木造の下屋ではなく、奥の建物を見ると石積みになっている。
随所に石蔵が残っていた。野々島や桂島にはボラと呼ばれる凝灰岩の崖をくりぬいた横穴が多数みられたが、寒風沢島ではその凝灰岩を使った石蔵が多く見られる。寒風沢集落の特徴といっていいだろう。
集落内には非常用発電機が備わっていた。大津波で孤立した教訓からの非常時対策であろう。
渡し船を携帯電話で呼び、朴島へ向かう。朴島周りは牡蠣の養殖場であり、その間を縫うように船が航行する。
そして、朴島に着いてびっくりさせられたのが、このホタテの壁だ。
牡蠣養殖の棚として使われている帆立貝の殻。高々と集落の随所に積まれていた。
朴島
朴島の名の由来は、大昔、伝説上の鳥「鳳凰」ば棲んでいたとか、奈良・平安時代にみちのくを統治するための通信用烽火(のろし)をあげたと考えられることから、烽島とも。また、江戸時代に仙台藩の軍用金や貴重な宝物が隠されたという伝説があり、宝島と呼ばれていたものが朴島になったのだという説もある。浦戸諸島では一番小さいが、豊かな自然と謎めいた伝説に包まれた魅力的な島だ。特に春は菜の花が島全体を覆い尽くし、美しい黄色の衣をまとう。(「シマダス」参照)
朴島集落の町並み。海岸線に直交する向きに棟を並べる形態だったようだが、古い家はあまりない。上の写真は凝灰岩を使った石蔵、下の写真は復興住宅である。
実は、随時就航している渡し船の存在を知らなくて、定期船で1日かけた計画をしていたため、大幅に時間が余ってしまった。
さて、塩竈港に戻ってからどうしようか。
塩竈から石巻をかすめ、北上川に沿って
北上する。登米から支流二股川に沿って上ると東和町米川がある。旧街道に沿った古い街並みがよく残っている。本吉を経て気仙沼へ至る街道と千厩へ至る街道の分岐点の宿場町として栄えたと思われるが、このエリアはタタラ製鉄の盛んだった地域でもあるので、その町場としても賑わったのか。
左右対称形の洋館もあり。
米川から本吉方面へ向かう途中、岩手県一関市藤川町大籠という地区を通る。岩手県が出っ張ったようになっており、その昔は伊達藩の領地だった。
この地は、潜伏キリシタンの集落だったそうで、資料館もある。資料館に入ったら、「どこからお越しですか?何故東京から?」などと理由を聞かれた。珍しい客人なのだろう。
ちなみに上の画像は、「ハシバ首塚」といい、処刑されたキリシタンの斬首が埋められた場所。哀しい歴史だが、その遺跡が多数残っている。
大籠の奥のエリアに行くと茅葺き民家群がある。群といっても5〜6棟であるが、今ではそれも珍しくなってきている。
一軒の長屋門の入口。変わった形態ではないか。
スレート屋根の建物があった。三陸気仙地方はスレートが採れることから、スレート屋根の民家が多く残っている。丁場は雄勝町明神が有名だが震災で閉鎖、この石は登米産であろう。