(鹿児島県獅子島黒崎)
天草諸島の獅子島をタイトルにしておきながら、南西諸島吐噶喇列島の話からはじめるのには理由がある。吐噶喇列島という場所が日本にあることをご存知だろうか。この難しい漢字「吐噶喇」と書いて「トカラ」と読む。
南西諸島の屋久島と奄美大島との間に、小さな有人島が7つ並んでいる。口之島から宝島の更に南の横当島(無人島)まで160km、十島村という日本で最も長い村でもある。そして、同時に渡航困難度が最高レベルの離島群でもある。
入社30周年のリフレッシュ休暇をもらい、有給休暇をプラスし10日間かけて、この列島を制覇をしようと企てた。鹿児島港を出航するフェリーとしまは、北から順に7つの島に寄港し、奄美大島名瀬港で折り返して今度は逆に7つの島に寄りながら鹿児島港に戻る。吐噶喇への交通手段はこのフェリーだけだから、上り下りを繰り返しながら島を訪ねることとなる。通常は週2便のため20日間かかるが、7月最終週は臨時便が出るので、10日間で駆け抜けることができるのだ。マップの数字は上陸する島の順番を示している。今年の4月から投入された新しいフェリーとしま2は船が大きくなり、欠航率が下がった。6月7月は台風が来ているにもかかわらず、1度しか欠航していなかった。しかし、、、旅立つ5日前に熱帯低気圧が発生した。
九州上空に鎮座する太平洋高気圧に押されて北上を抑止されていたが、私の乗る予定の船が出る7/20に狙いを定めるように北上開始。順延出航も期待したが、結局「欠航」となってしまった。トホホ、泣きたいよ。
こんな事になった場合を想定して、代替案を用意している。先月の口永良部島でも台風にやられ東北へ変更した。よっぽど南西諸島は私のことを嫌いなようだ。気を取り直して前半は天草諸島の架橋のない離島を歩く。
鹿児島空港でクルマを借りて、夜に川内に着いた。夕焼けが綺麗だから明日は雨かな。長島諸浦港から獅子島経由で天草下島へ渡る予定である。
天草諸島はほとんどが熊本県だが、天草下島と九州本土の間の八代海に浮かぶ島々の内、獅子島以南は鹿児島県に属する。
獅子島
長島の北東、伊唐島の北にある島。標高393mの七郎山が最高点で丘陵地形をなし、斜面には甘夏みかん畑が広がる。入江ごとに集落があり、恵まれた地勢、自然条件を生かしたブリ・タイなどの養殖業や、まき網、ごち網漁も盛んである。室町時代、獅子島の領主唐津藩士の子孫の獅子谷七郎であったと伝えられている。当時は肥後領土だったが、永禄8年(1565)薩摩藩との戦に敗れ島津の領有地となった。前領主の姓をとって獅子島の島名がつけられたという。化石の島としても知られ、アンモナイトなど多数の化石が出土している。(「シマダス」参照)
諸浦港から獅子島を経由して天草下島へ向かうフェリーの1便。タンク車やダンプ、材木を積むトラックなど仕事車がほとんど。ちなみにフェリーは天草下島まで行くが、全ての車両が獅子島で降りた。
船が着いた片側港(かたそば)から島の西海岸北方にある平野・御所浦集落へ行く。
平野地区を高台から見下ろす。なかなか良さそうで、川に沿って集落が形成されている。
この川と橋と民家の関係。映画「八つ墓村」の32人殺しシーンに出てくる集落に似ているぞ!(実際のロケ地は滋賀県余呉町鷲見)。
うーむ似ている。村の人らが私を不審者と疑うような目で見ている。なんだか怖い。
これが古い民家の形態であろうか。入母屋瓦屋根(セメント瓦)。2棟が寄り添う形が良い。
ここも2棟が寄り添う。
お地蔵さん?
村のスーパーマーケットか。獅子マート。
片側と御所浦との間にある黒崎集落。
獅子島片側港。天草下島へ渡る。
天草諸島最南端の街である牛深のコンビニにて。雨が激しく降って来た。この熱した大地を冷やしてくれ!
牛深からハイヤ大橋というカッコいい橋で下須島へ渡る。この橋、建築家レンゾピアノと岡部憲章によりデザインされた橋。しかし、下須島へ渡るためにこんな大げさな橋が必要なのかなぁ。
下須島天附集落。対岸の牛深と同様にいくつもの入江に集落が形成されている。
尾根を超えると隣の集落へ。
一番奥のところにこんな立派な古民家があった!海鼠壁と漆喰白壁の家。
八角形の海鼠壁は熊本県の特徴。立派だ。
入江谷の最奥部で坂道になる。
また別の道。古い井戸があった。
ここにも井戸。周りが石畳になっていて、洗い場が形成されてる。また、このように茅葺鉄兜の古民家がチョイチョイ残っている。
牛深を後にし、天草下島の西海岸を北上する。途中の崎津集落。内海に教会をシンボルとした集落で、私の好きな集落のひとつ。サイト〈集落町並みWalker〉のインデックスページの一番上の背景はココ。今や集落が世界遺産となり大騒ぎだ。
天草下島の北端近くにあって橋で渡れる通詞島。以前やり過ごしてたので再訪だ。
集落は横に長く裏はすぐに斜面となっている。
メインの横道を辿ると切石石塀のお屋敷があった。
石積みの塀を巡らす家。通詞島とは由緒ありそげな名前だ。
ここにも洗い場の石畳を巡らす六角井戸があった。
さらに天草下島の集落探訪を続ける。島の北部真ん中あたりにある御領という町。戦国時代に志岐氏の支城があり、地域の政治の中心だった。
丘の上が城址だそうで、そこに大きな芳証寺の境内となっている。上に画像は旧名主のお屋敷だが、とても立派な石塀が見られた。
切石のディテール。とっても綺麗だ。
芳証寺の石垣と土塀。
旧街道沿いには古い町家が残る。草葺鉄兜の民家も多い。
芳証寺前に並ぶの石像群。
今宵の宿泊は天草一の経済中心都市である本渡。寿司屋に行った帰りに商店街を歩いてみた。島なのにアーケード街があるぞ!しかも「銀天街」!
「銀天街」とは、九州のアーケード街で共通して使われている名称で、発祥は小倉だと言われている。そして、もう一つ共通しているのは、戦災復興都市であること。つまり、戦災で焼失した中心市街地の商店街の復興のシンボルが「銀天街」というアーケード街なのである。
しかも形の似通った二階建ての不燃建築が並んでいる。
裏には定番のスナック街。ひと通り歩いて言えることは、戦災復興商店街みたいということ。でも、天草が空襲受けたとは思えない。
もしかして、大火?