(鹿児島県十島村宝島)
吐噶喇列島の旅、ついに最後の島となる。列島最南端の宝島だ。ここで、そもそも何で最後に最北端の口之島→最南端の宝島をもってきたのかについて、今更ながら説明しておきたい。「北からあるいは南から順に行けば、船に乗っている時間も少なく合理的ではないか」と思われることだろう。下の画像は出来るだけ北から順番に攻めたケースである。
気づいたと思うが、このケースでも完全な順番ではない。①を口之島にしたら翌日鹿児島へ帰るしかなくなるし、③を平島ではなく諏訪之瀬島にした場合でも翌日鹿児島に帰る羽目になる。したがって、2つ飛ばしくらいの順番となっている。確かに上記のケースの方が、私の立てた冒頭の計画より合理的ではある。ところが、実はリスクが高い。
そのリスクとは「抜港」である。海が荒れた時、波の具合で着岸できない場合がある。そういう時に通過してしまうことを抜港という。北から順に攻めるケースで、ある島を抜港した場合、下り便(鹿児島→名瀬)であれば別の島に切り替えることができても、上り便(名瀬→鹿児島)の場合は切り替える島がない。つまり、私の計画は、最も抜港されやすい平島と小宝島を最初の方に持ってきて、真ん中あたりから両端へ広げていく考え方であり、上り下りどちらで抜港されても別の島に切り替えられる案なのである。したがって、最後が両端の島になっているのだ。
宝島
吐噶喇列島の有人島最南、亜熱帯の植物が咲き珊瑚礁では色鮮やかな魚が泳ぐロマンあふれる島だ。その名の通り、昔海賊キッドが財宝を隠したといわれ、島内には財宝を隠せる鍾乳洞もあり、ちょっと探検心をくすぐられる。吐噶喇列島では、宝島のことをトカラと言っており、『琉球国誌略』では、「琉球国人は七島全てを吐噶喇という」とある。大池遺跡や浜坂貝塚からは宇宿土器のほか本土系土器が出土し、すでに先史時代から南北交流の跡がうかがわれる。文書の上で最も古い時代はトンチ(殿内)の「平田家系図にある平田権次郎宗貞が永享年間(1429~41)リュウキュウへ渡り、布や酒を持参し鹿児島の藩主へ捧げ、以後薩琉の案内役をしたという記事だ。子孫の宗継はヒデヨシの朝鮮出兵に従軍し、慶長14年(1609)島津軍琉球出兵の案内役を務め、子孫代々郡司役だった。江戸時代は、異国遠見番所があり、在番のもと郡司、横目が島政を行った。文政7年(1824年)にはイギリス船の侵略があり、翌年幕府が命じた「異国船打払令」の一原因ともなった。西岸のトカラ観音堂には文明4年(1472)の墨字のある仏像が安置されている。歴史的にもいかにも宝島というネーミングにふさわしいロマンあふれる島だ。(「シマダス」参照)
さて、最後のレポを始めよう。妊婦が寝転がっている島影の小宝島に再び寄港し、ここからが初の海になる。
宝島が見えてきた。口之島〜悪石島の5島とは異なる島影、小宝島を大きくしたようでもある。つまり海岸線にリーフが形成されている隆起珊瑚礁の島なのだ。
山は結構高い。集落は山の麓、港から歩いていけるような場所にあるようだ。
珊瑚礁のリーフを掘削して造られた港。
大きな擁壁に描かれた絵が宝島のシンボル。
船を降りてまず思ったのが、若い人が多く活気が感じられるところ。宝島には従前からの住民に加え、島外からの移住者もおり人口が増えているという。
集落は港から歩いていける距離にあり、中でも最も港に近いところに今宵の宿・浜坂荘がある。浜坂貝塚の前にあたる。
ランチを済ませた後、クルマを借りて集落以外の取材から取り掛かる。まず島の西海岸にある大間泊という場所に行ってみた。ここには、かつて集落があったそうで、疫病が流行し消滅した。集落跡の石垣石塀が残っていると聞いたが、浜辺にはないので高い位置にあるのだろう。見てみたいが、トカラハブが居る森の中を探索することはしたくない。ちなみに、近くに観音堂と大鍾乳洞があるが、こっちも同様の理由で行かない。
浜に打ち上げられた大木があった。これだけ直径が大きく真っすぐな木材は日本ではとれない。いったいどこから流れて来たのだろう。
島の南部は細まりながらのびていて城之山牧場となっている。先端の荒木崎への道は牧場内を通るので、ゲートを手で開け閉めして入る。
城之内牧場から北を見る。この風景見せられて日本と思う人はそういないだろう。
荒木崎灯台の下に「平家の砦」という石積みがある。宝島には平家の落人伝説があるが、こんな南の島にまであるとは驚きだ。
西海岸の自然景観。日本って広いとつくづく思う。
東海岸越しに小宝島を臨む。
東海岸の中央あたりにある宝島港。船もなくあまり使われていない様子。珊瑚礁のリーフを掘削して造られている。
浜坂荘はマリンスポーツやフィッシングを目的に常連客が集まる宿。料金は安くアットホームな宿だが、私みたいな旅人はちょっとアウェイ感がある。まぁこれは、吐噶喇列島全般に言えることだが。
これから集落探訪。まず、前籠漁港から集落の真ん中めがけて上っていくメインストリートを歩く。宝島は琉球じゃないが、こういう港と集落の構成からして琉球っぽい。
メインストリートは「イギリス坂」と呼ばれる。時は江戸時代、小さな島で大きな事件が起きた。宝島にイギリスの船がやってきて船員らが上陸し、馬の交易を要求してきた。それを断ると牧場の牛を射殺したり銃を乱発した。そこで、当時藩より出張していた役人が応戦し、イギリス人1人を射殺したという。このことをきっかけに、幕府は翌年に「異国船打払令」を発令して、一段と鎖国体制を強化したと言われている。幕末はイギリスやロシアの外国船が貿易を求めて日本にやってくる動きが各所であったようである。
イギリス坂は珊瑚礁の石垣が続く。珊瑚石というだけで奄美地方から沖縄の雰囲気に近いと感じてしまう。
宝島ではかつて集落を部落と呼んでいた(現在は集落と呼ぶ)。今でもこのメインストリートから西側を西ブラ、東側を東ブラと呼んでいるそうだ。
西ブラから歩く。
切妻屋根の民家。真っ白な屋根なので、ルーフィング葺きかと思ったが、よく見ると金属折板だ。壁は押し縁形式の下見板張り。
墓地は普通集落の外周部にあるのだが、古い墓地が集落中心部にあった。石は珊瑚石であろうか、かなり風化している。
宝島のコミセン(コミュニティセンター)。十島村の出張所と集会所、売店が入っている。
島に売店があるのは、見てきた5島の中では宝島だけ。やはり十島村第2の街?だけある。ただし、営業時間が朝1時間、夕方2時間だけ。お買い物は時間を逃さずに!
所々に残る石垣石塀。
ブロック造の建物も多く見かける。
若い人が多ければ子供も多い。本来集落はこうあるべきだが、老人の多い離島の集落ばかり見てきている私にはどうも違和感がある。
鉄筋コンクリート造の
民家も複数見られた。台風対策で窓には板が嵌めてある。港に生コンプラントがあるからつくりやすいとはいうものの宝島だけ多く見られ、これだけでも沖縄の集落っぽく見えてくる。ただし、沖縄の場合は大きなバルコニーがつくケースが多いが。変わった形態の石塀に囲まれた入口があり、中は鬱蒼と茂った森になっている。建物の外壁の遺構ではなさそうにも見える。なんだろう。
その隣の民家。鉄筋コンクリート造の付属屋に囲まれた入母屋屋根の民家。屋根は金属折板だ。
金属折板屋根の木造民家と鉄筋コンクリート造の民家が混在する町並み。
東ブラ地区に最も古そうな屋敷を見つける。珊瑚石の石塀と寄棟平屋建て。
奄美地方に多い入母屋屋根ではないが、金属折板屋根の形態は似ている。
東ブラの町並み。
外壁に珊瑚石を積んだ建物。現在使っていないが、牛舎だろうか。入口の木のアーチが珍しい。
ユニークなブロック塀があった。ブロックとブロックの間に貝殻を嵌めている。これだけのことで、無機的なブロック積みが有機的になる。このアイデアいただき!
さて、そろそろ「渡瀬線建築文化境界論」に結論を出そう。
渡瀬線とは、動物地理区の境界線の1つで、屋久島・種子島と奄美大島とのあいだの七島灘で東西の分けるもの。大正元年(1912)動物学者の渡瀬庄三郎が提唱した。その境界線は、悪石島と小宝島の間にある。私は建築の形態で整理する。
✴︎東(北):口之島〜悪石島
屋根=ルーフィング葺き・白
壁=板張り(下見板張り・縦張り)
石垣石塀=ごろた石
✴︎西(南):小宝島〜宝島
屋根=金属折板葺き
壁=板張り(下見板張り・縦張り)
石垣石塀=珊瑚石
宝島は鉄骨鉄筋コンクリート民家が混じる
といことで、明らかに線が引けそうだ。そこで、周辺の島との関係もみてみる。
↑鹿児島県三島村硫黄島の民家。主屋こそ入母屋瓦葺きであるが、手前の付属屋がルーフィング葺き黒だ。他にも見てみたが、吐噶喇列島より北は屋久島や三島村含めて瓦屋根が主流だった。石垣石塀に珊瑚石はない(採れないのであたり前だが)。白のルーフィング葺きというのは、吐噶喇列島北部の特徴といえよう。
↑奄美大島の民家。奄美大島周辺の離島や以南の徳之島・沖永良部島・与論島にかけては全てこの金属折板屋根である。ただ、真っ白はなく、錆びていなければこのシルバーが圧倒的に多い。壁までシルバー折板というのもある。石垣石塀は隆起珊瑚礁の島なら珊瑚石となる。
夕方、お茶を買いに外に出ようとしたら、民宿の女将さんから「夜になると道端にもハブが居るから気をつけて!」といわれた。恐る恐る道の真ん中を歩き、コミセンの売店まで行く。売店の入口に「吐噶喇ハブ注意」のステッカーが貼ってあった。
とうとう吐噶喇列島と別れる時が来た。台風12号は私の旅に配慮してか一旦東へ向かったが、ぐるっと反時計回りにカーブして九州に向かっている。離れたここでも風が強く、海も今までとは異なり波が高い。
5:10発鹿児島港へ向けフェリーとしまが出港。初日の小宝島でお月見した月が、西に沈もうとしている。
これで終わろうと思ったが、フェリーとしま上り便の中で、もう一ネタ。昼、レストランラウンジに行ったら、各島で出会った人達が乗っているではないか。諏訪之瀬島の民宿の主人、悪石島の出張所の美人職員、口之島の民宿のテレビに出てたご主人、などなど。私は顔見てもわからないが、島の人たちからは「奴だ」ときっと思われているのだろう。実は、悪石島の民宿で、女将さんがお孫さんを紹介してくれたのだが、この孫が超可愛い4つの女の子だった。おばあちゃんも美人なのでなるほどと思っていたが、もしかしてお母さんはあの出張所の美人職員ではないかと仮説を立てていた。今、その答えがわかった。美人職員のお母さんの連れていた子が振り向いたら、民宿のお孫さんだった。
(海界の村を歩く 吐噶喇列島編 おわり)