<   2018年 07月 ( 8 )   > この月の画像一覧

 

海界の村を歩く 東シナ海 宝島

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(鹿児島県十島村宝島)

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吐噶喇列島の旅、ついに最後の島となる。列島最南端の宝島だ。ここで、そもそも何で最後に最北端の口之島→最南端の宝島をもってきたのかについて、今更ながら説明しておきたい。「北からあるいは南から順に行けば、船に乗っている時間も少なく合理的ではないか」と思われることだろう。下の画像は出来るだけ北から順番に攻めたケースである。
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気づいたと思うが、このケースでも完全な順番ではない。①を口之島にしたら翌日鹿児島へ帰るしかなくなるし、③を平島ではなく諏訪之瀬島にした場合でも翌日鹿児島に帰る羽目になる。したがって、2つ飛ばしくらいの順番となっている。確かに上記のケースの方が、私の立てた冒頭の計画より合理的ではある。ところが、実はリスクが高い。
そのリスクとは「抜港」である。海が荒れた時、波の具合で着岸できない場合がある。そういう時に通過してしまうことを抜港という。北から順に攻めるケースで、ある島を抜港した場合、下り便(鹿児島→名瀬)であれば別の島に切り替えることができても、上り便(名瀬→鹿児島)の場合は切り替える島がない。つまり、私の計画は、最も抜港されやすい平島と小宝島を最初の方に持ってきて、真ん中あたりから両端へ広げていく考え方であり、上り下りどちらで抜港されても別の島に切り替えられる案なのである。したがって、最後が両端の島になっているのだ。
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宝島
吐噶喇列島の有人島最南、亜熱帯の植物が咲き珊瑚礁では色鮮やかな魚が泳ぐロマンあふれる島だ。その名の通り、昔海賊キッドが財宝を隠したといわれ、島内には財宝を隠せる鍾乳洞もあり、ちょっと探検心をくすぐられる。吐噶喇列島では、宝島のことをトカラと言っており、『琉球国誌略』では、「琉球国人は七島全てを吐噶喇という」とある。大池遺跡や浜坂貝塚からは宇宿土器のほか本土系土器が出土し、すでに先史時代から南北交流の跡がうかがわれる。文書の上で最も古い時代はトンチ(殿内)の「平田家系図にある平田権次郎宗貞が永享年間(1429~41)リュウキュウへ渡り、布や酒を持参し鹿児島の藩主へ捧げ、以後薩琉の案内役をしたという記事だ。子孫の宗継はヒデヨシの朝鮮出兵に従軍し、慶長14年(1609)島津軍琉球出兵の案内役を務め、子孫代々郡司役だった。江戸時代は、異国遠見番所があり、在番のもと郡司、横目が島政を行った。文政7年(1824年)にはイギリス船の侵略があり、翌年幕府が命じた「異国船打払令」の一原因ともなった。西岸のトカラ観音堂には文明4年(1472)の墨字のある仏像が安置されている。歴史的にもいかにも宝島というネーミングにふさわしいロマンあふれる島だ。(「シマダス」参照)
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さて、最後のレポを始めよう。妊婦が寝転がっている島影の小宝島に再び寄港し、ここからが初の海になる。
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宝島が見えてきた。口之島〜悪石島の5島とは異なる島影、小宝島を大きくしたようでもある。つまり海岸線にリーフが形成されている隆起珊瑚礁の島なのだ。
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山は結構高い。集落は山の麓、港から歩いていけるような場所にあるようだ。
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珊瑚礁のリーフを掘削して造られた港。
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大きな擁壁に描かれた絵が宝島のシンボル。
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船を降りてまず思ったのが、若い人が多く活気が感じられるところ。宝島には従前からの住民に加え、島外からの移住者もおり人口が増えているという。
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集落は港から歩いていける距離にあり、中でも最も港に近いところに今宵の宿・浜坂荘がある。浜坂貝塚の前にあたる。
ランチを済ませた後、クルマを借りて集落以外の取材から取り掛かる。まず島の西海岸にある大間泊という場所に行ってみた。ここには、かつて集落があったそうで、疫病が流行し消滅した。集落跡の石垣石塀が残っていると聞いたが、浜辺にはないので高い位置にあるのだろう。見てみたいが、トカラハブが居る森の中を探索することはしたくない。ちなみに、近くに観音堂と大鍾乳洞があるが、こっちも同様の理由で行かない。
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浜に打ち上げられた大木があった。これだけ直径が大きく真っすぐな木材は日本ではとれない。いったいどこから流れて来たのだろう。
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島の南部は細まりながらのびていて城之山牧場となっている。先端の荒木崎への道は牧場内を通るので、ゲートを手で開け閉めして入る。
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城之内牧場から北を見る。この風景見せられて日本と思う人はそういないだろう。
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荒木崎灯台の下に「平家の砦」という石積みがある。宝島には平家の落人伝説があるが、こんな南の島にまであるとは驚きだ。
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西海岸の自然景観。日本って広いとつくづく思う。
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東海岸越しに小宝島を臨む。
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東海岸の中央あたりにある宝島港。船もなくあまり使われていない様子。珊瑚礁のリーフを掘削して造られている。
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浜坂荘はマリンスポーツやフィッシングを目的に常連客が集まる宿。料金は安くアットホームな宿だが、私みたいな旅人はちょっとアウェイ感がある。まぁこれは、吐噶喇列島全般に言えることだが。
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これから集落探訪。まず、前籠漁港から集落の真ん中めがけて上っていくメインストリートを歩く。宝島は琉球じゃないが、こういう港と集落の構成からして琉球っぽい。
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メインストリートは「イギリス坂」と呼ばれる。時は江戸時代、小さな島で大きな事件が起きた。宝島にイギリスの船がやってきて船員らが上陸し、馬の交易を要求してきた。それを断ると牧場の牛を射殺したり銃を乱発した。そこで、当時藩より出張していた役人が応戦し、イギリス人1人を射殺したという。このことをきっかけに、幕府は翌年に「異国船打払令」を発令して、一段と鎖国体制を強化したと言われている。幕末はイギリスやロシアの外国船が貿易を求めて日本にやってくる動きが各所であったようである。
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イギリス坂は珊瑚礁の石垣が続く。珊瑚石というだけで奄美地方から沖縄の雰囲気に近いと感じてしまう。
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宝島ではかつて集落を部落と呼んでいた(現在は集落と呼ぶ)。今でもこのメインストリートから西側を西ブラ、東側を東ブラと呼んでいるそうだ。
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西ブラから歩く。
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切妻屋根の民家。真っ白な屋根なので、ルーフィング葺きかと思ったが、よく見ると金属折板だ。壁は押し縁形式の下見板張り。
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墓地は普通集落の外周部にあるのだが、古い墓地が集落中心部にあった。石は珊瑚石であろうか、かなり風化している。
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宝島のコミセン(コミュニティセンター)。十島村の出張所と集会所、売店が入っている。
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島に売店があるのは、見てきた5島の中では宝島だけ。やはり十島村第2の街?だけある。ただし、営業時間が朝1時間、夕方2時間だけ。お買い物は時間を逃さずに!
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所々に残る石垣石塀。
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ブロック造の建物も多く見かける。
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若い人が多ければ子供も多い。本来集落はこうあるべきだが、老人の多い離島の集落ばかり見てきている私にはどうも違和感がある。
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鉄筋コンクリート造の民家も複数見られた。台風対策で窓には板が嵌めてある。港に生コンプラントがあるからつくりやすいとはいうものの宝島だけ多く見られ、これだけでも沖縄の集落っぽく見えてくる。ただし、沖縄の場合は大きなバルコニーがつくケースが多いが。
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変わった形態の石塀に囲まれた入口があり、中は鬱蒼と茂った森になっている。建物の外壁の遺構ではなさそうにも見える。なんだろう。
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その隣の民家。鉄筋コンクリート造の付属屋に囲まれた入母屋屋根の民家。屋根は金属折板だ。
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金属折板屋根の木造民家と鉄筋コンクリート造の民家が混在する町並み。
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東ブラ地区に最も古そうな屋敷を見つける。珊瑚石の石塀と寄棟平屋建て。
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奄美地方に多い入母屋屋根ではないが、金属折板屋根の形態は似ている。
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東ブラの町並み。
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外壁に珊瑚石を積んだ建物。現在使っていないが、牛舎だろうか。入口の木のアーチが珍しい。
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ユニークなブロック塀があった。ブロックとブロックの間に貝殻を嵌めている。これだけのことで、無機的なブロック積みが有機的になる。このアイデアいただき!
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さて、そろそろ「渡瀬線建築文化境界論」に結論を出そう。渡瀬線とは、動物地理区の境界線の1つで、屋久島・種子島と奄美大島とのあいだの七島灘で東西の分けるもの。大正元年(1912)動物学者の渡瀬庄三郎が提唱した。その境界線は、悪石島と小宝島の間にある。
私は建築の形態で整理する。
✴︎東(北):口之島〜悪石島
屋根=ルーフィング葺き・白
壁=板張り(下見板張り・縦張り)
石垣石塀=ごろた石
✴︎西(南):小宝島〜宝島
屋根=金属折板葺き
壁=板張り(下見板張り・縦張り)
石垣石塀=珊瑚石
宝島は鉄骨鉄筋コンクリート民家が混じる
といことで、明らかに線が引けそうだ。そこで、周辺の島との関係もみてみる。
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↑鹿児島県三島村硫黄島の民家。主屋こそ入母屋瓦葺きであるが、手前の付属屋がルーフィング葺き黒だ。他にも見てみたが、吐噶喇列島より北は屋久島や三島村含めて瓦屋根が主流だった。石垣石塀に珊瑚石はない(採れないのであたり前だが)。白のルーフィング葺きというのは、吐噶喇列島北部の特徴といえよう。
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↑奄美大島の民家。奄美大島周辺の離島や以南の徳之島・沖永良部島・与論島にかけては全てこの金属折板屋根である。ただ、真っ白はなく、錆びていなければこのシルバーが圧倒的に多い。壁までシルバー折板というのもある。石垣石塀は隆起珊瑚礁の島なら珊瑚石となる。
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夕方、お茶を買いに外に出ようとしたら、民宿の女将さんから「夜になると道端にもハブが居るから気をつけて!」といわれた。恐る恐る道の真ん中を歩き、コミセンの売店まで行く。売店の入口に「吐噶喇ハブ注意」のステッカーが貼ってあった。
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とうとう吐噶喇列島と別れる時が来た。台風12号は私の旅に配慮してか一旦東へ向かったが、ぐるっと反時計回りにカーブして九州に向かっている。離れたここでも風が強く、海も今までとは異なり波が高い。
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5:10発鹿児島港へ向けフェリーとしまが出港。初日の小宝島でお月見した月が、西に沈もうとしている。
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これで終わろうと思ったが、フェリーとしま上り便の中で、もう一ネタ。昼、レストランラウンジに行ったら、各島で出会った人達が乗っているではないか。諏訪之瀬島の民宿の主人、悪石島の出張所の美人職員、口之島の民宿のテレビに出てたご主人、などなど。私は顔見てもわからないが、島の人たちからは「奴だ」ときっと思われているのだろう。実は、悪石島の民宿で、女将さんがお孫さんを紹介してくれたのだが、この孫が超可愛い4つの女の子だった。おばあちゃんも美人なのでなるほどと思っていたが、もしかしてお母さんはあの出張所の美人職員ではないかと仮説を立てていた。今、その答えがわかった。美人職員のお母さんの連れていた子が振り向いたら、民宿のお孫さんだった。
(海界の村を歩く 吐噶喇列島編 おわり)
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by marunouchi_no1 | 2018-07-29 07:00 | 鹿児島県  

海界の村を歩く 東シナ海 口之島

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(鹿児島県十島村口之島)

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悪石島発7:15→口之島着11:25。口之島は、吐噶喇列島の北の玄関口である。
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鹿児島市に最も近い口之島は、下り船が早朝5:00に着く。観光ではマイナーな吐噶喇ではあるが、口之島は土日をたっぷり楽しめる島として、鹿児島市民の観光地、釣り客にも人気がある。
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口之島
吐噶喇列島最北端、野生牛山を駆けタモトユリの香る島。夜、鹿児島港を出港した船は、午前6時頃(現在は5:00着)、吐噶喇列島の入口・口之島西之浜港に着く。これから無垢の自然との出会いが始まる。南北に長く、東西が狭い口之島の中央に前岳(628m)がそそり立ち、北側の緩やかな斜面に集落がある。島には純血種の野生牛が深い山林の中に生息しており、その数およそ40頭と言われている。全島リュウキュウチクに覆われ、アコウ・ガジュマルなどの亜熱帯性の植物も多い。その昔、平家の落人がこの島に流れてきた時に、着物の袂に入れてきたといわれるタモトユリが見られるなど、豊かな自然が息づいている。文献上の初見は、応永3年(1396)年にさかのぼる。江戸時代は薩摩藩直轄領で船奉行の支配のもと異国船遠見番所が置かれ、鹿児島から2人の在番が常駐、その下に住民推挙の郡司1人、横目2人がいて島政を司った。郡司は代々肥後家が務め、その屋敷地をトンチ(殿地)といい、村の中央にあった。享保12年(1727年)の『立証名寄帳写』によると薩摩藩の門割制が施行され、トンチを中心に20の屋敷(門)があり、人口222人、屋敷ごとに1人の名頭と2〜3人の名子がいた。当時、船は639石積1艘のほか大小6艘があって郡司が管理し、毎年1回上鹿してカツオブシなどの年貢を納めた。昭和21年2月、北緯30°線以南は全て米軍軍政に入り、30°線が島の北端をかすめる口之島では奄美地方と鹿児島地方から「闇船」が来て、物資交換・売買する場所となった。現在、サツマイモ栽培を中心とする農業と、肉用牛の生産が営まれている。小規模ながら水田もある。また、自然のリーフを掘った海水浴場も完成、潮の干満によってはたくさんの魚を見ながら海水浴が楽しめる。(「シマダス」参照)
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この島も悪石島に次ぐ山岳島という印象だ。集落への道路は、島北西部にある西之浜漁港から斜面を登り、尾根を越えて東海岸の高い位置を南へやや行くと口之島集落に至る。
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島の東海岸。島の周囲は全て切り立っている。この島には吐噶喇列島では珍しくわずかながら田圃がある。画像のように斜面上の棚田だ。
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口之島集落が見えてきた。白い点々が民家の屋根だ。
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山腹の緩斜面上の高い位置にあるのがわかる。
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大きな屋根の家が2棟見える。特に奥の民家が古そうだ。いい集落に出会える予感がする。
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口之島集落の中心、コミセンの前に大きなガジュマルの木があり、その下に「河=カワ」という湧水による水場がある。今でもこんこんと湧く澄んだきれいな水は、島民の憩いの場であるとともに生活用水としても利用されている。夏場は子供達が水の中で遊んでいる光景も見られる。
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左手の屋根がかかっているところが湧水の場所。この屋根の下の水場には入ってはならぬ。
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口之島集落を歩く。今まで見てきた3つの島の集落と違うのは、家々が一カ所に集まっていて家並みを作っているところだ。
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斜面上に形成されていて割と密集しているため、石垣が多く、白い屋根と相まって集落景観の重要な要素となっている。
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そしてこの島でも印象的なのが、この真っ白なルーフィング葺きの屋根だ。
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こうして見ると、屋根の上に雪を載せているみたいに見える。
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切妻、寄棟、入母屋といろんな屋根形態が混在する平屋建ての集落だが、傾斜屋根であることと色だけでこれだけ統一感を演出できるものだと、改めて認識する。
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もちろん昔は草葺だったはずで、その時の景観も素晴らしかったであろう。
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このことか?諏訪之瀬島の民宿の主人が言っていた「便利瓦」とは。
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たしかに、破風周りのややこしい納まりに見事に追従している。
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このシームレスな屋根の造形によるインパクトはなんだろう。
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この「白の造形」を堪能してただきたい。
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最初に下から見上げた民家。この家、軒が低くやはり古そうである。そして注目の壁は、木板の縦張りだった。どうやら古い張り方が縦で、新しいのは横張りということか。これで壁に関しては、渡瀬線文化境界論が否定された。
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島の南半分は、前岳628mを最高に横岳501m、燃岳425m、タナギ岳453mと非常に険しい山岳地帯となっている。そして、そのエリアが口之島自慢の野生牛の生息地だ。林道を行くと牛が出られないように閉められたゲートに差し掛かるので、このゲートを開けて入っていく。閉め忘れには注意。
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野生牛発見。口之島は、日本でも唯一の純血種の黒毛和牛である野生牛が生息する。黒毛和牛と聞くと食いたくなるが、野生で守られている彼らを食ってはならない。
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燃岳とタナギ岳の間の峠。道をとうせんぼしている奴がいる。
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すぐ目の前までクルマを近づけても動じず、クラクションを鳴らしてもダメ、そのうちのっそりと起き上がって面倒くさそうに道を開けてくれた。牛の気持ちを想像する。「なんか見かけない奴が来たぞ。モーめんどくさいなぁ。どっこいしょ、モー」
道路上に沢山落ちている大きな牛の糞を避けながら、島の南にある瀬良馬(せらんま)温泉まで急坂を下る。ここは出張所で施設の鍵を借りないと入れない。さっき借りた時はノートに私一人しか書いてなかったので、独り占めできる。しかし、内風呂も露天風呂も湯が張られていない。湯を張るところからというのは流石にめんどくさいので、やめた。私は温泉マニアではない。
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出張所が閉まる16:00前にコミセンへ行って、明日の切符を購入しようとしたけれど誰もいない。電気もクーラーもつけっぱなしだし鍵も開けっ放し。クルマがないのでどっかに出かけている様子。窓口に携帯電話の番号が書いてあったのかけてみたが、机の上で鳴っていた。現金も置いてあるというのに、のんびりしたもんだ。切符は明日、船の中で買うことにした。
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西之浜漁港近くの宿(民宿なかむら)に戻る。さっきから村内放送で盛んにお知らせがされている。「今晩、テレビで口之島を取り上げた
番組が放送させるので見逃さないように」という案内だ。


食堂に民宿のご家族も集まる。フジテレビ系「興奮ワード10」という番組で、口之島の特集が放映された。収録は1ヶ月ほど前だったという。民宿のご主人も出てきた。ほとんど取り上げられないマイナーな離島を取り上げた全国版テレビ番組を、偶然にもその島で観れたなんてスゴイことだと思う。
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19:30、西の空が赤く染まっていた。
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翌朝、フェリーとしま下り便は、口之島に5:00入港する。夜明け前で真っ暗な港に作業される島の方々が集まる。
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フェリーとしまがやってきた。真っ暗に中、大きな船体がゆっくりと回転し、サーチライトが左右に動いている。
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この感じ、映画「未知との遭遇」のUFOと向かい合うシーンのようだ。
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この船に乗るのはこれで5度目。
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これから吐噶喇列島の最南端である宝島を目指す。

by marunouchi_no1 | 2018-07-27 06:00 | 鹿児島県  

海界の村を歩く 東シナ海 悪石島

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(鹿児島県十島村悪石島)

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フェリーとしま2は通常週2便だが、シーズには3便運航する。7/末もそうで、鹿児島港出港7/25の臨時下り便は諏訪之瀬島港を7:20に発つ。フェリーに乗り込んだら運航を委託されている中川運輸株式会社のカウンターのスタッフが、一つ前の便と同じではないか。つまり彼は、二泊三日の航行を終えて夕刻鹿児島に戻るや否や交替することなく、再びその日の23:00に出港し二泊三日の仕事に就いていることになる。これはかなりの重労働である。今話題の「働き方改革」とやらはどうなっているのだろう。
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諏訪之瀬島を出てすぐイルカの群れが水面ジャンプを繰り返していた。気がついたときは遠く離れていて撮影できなかった。まだあと3回チャンスがある。そのかわりにカツオドリが沢山飛んでいる。船の周りにまとわりつくトビウオを狙っているのだ。トビウオを見つけるやいなや急降下して仕留める。
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悪石島が見えてきた。逆光で雲がかかっているから、なおさら悪そうだ。
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WELCOME 看板は奇祭ボゼの絵。悪石島はとにかくボゼボゼなのだ。毎年旧暦の盆にボゼ祭りが催される。今年のツアーも発売と同時に完売となった模様で、観光客が少ない吐噶喇列島にあって、唯一これだけは人気がある。
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民宿二本松のおかみさんが出迎えてくれた。そして背中には「悪」の字。反してとっても親切な方だ。
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悪石島
トカラ列島のほぼ中央、諏訪之瀬島の南約20kmにある島。その名の通り断崖絶壁に囲まれているが、別名「美女とネズミと神々の島」ともいわれる。仮面神ボゼに象徴されるだけでなく、島内各所に神がまつられるまさに神々の島だ。うっそうと茂った亜熱帯性の樹木群は、大切に保護され、「神山」として聖地の扱いをされる。港のそばの海中には温泉があり、少し林の中に踏み入ると天然の砂むし温泉もある。港には、夏場は特産物になっているトビウオの天日干しがいっぱいに広がるなど、のどかな海村の風景も垣間見せてくれる。八幡神社所蔵の須恵器片など、定住の始まりは古代まで遡り、陶器片には青磁を始め中国系や北九州、薩摩、琉球など各地のものがあって中世〜近世期の交易の広さがしのばれる。江戸時代は悪石島詰御在番衆として鹿児島侍が駐在した。古くは女神山の麓に東の村があったという。聖地のひとつオキンヤマには秋葉・金比羅・霧島の神とともに「島建世建の御大将」を祀る。この御大将は墓地入口にも石を建てて祀っており「奉無縁供養造立、貞享二年」(1685)と刻字してある。墓地は近年の改築以前は他に類を見ない見事な墓地で、年貢船下島時に購入した山川石の墓石群が立ち並び、しかも寛永18年(1641)の碑文始め元禄・宝永・享保・寛延など江戸前期から中期の年代がみえ、近世の活動を物語る記念碑でもあった。かつては養徳寺と大奥寺の2寺があったが、幕末には養徳寺1寺だった。那覇からの学童疎開船「対馬丸」が近海で撃沈され、その慰霊碑が建立されている。(「シマダス」参照)
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悪石は海岸線に全く平地がない。だから、集落は海抜170mくらいの山の上にある。丘の上という生易しいものではない。
一旦集落の中にある民宿へ行き、荷物を置いて行動開始。まだ10:00だから、クルマを借りてメインの集落(上集落)以外の島の名所を巡る。
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悪石島の玄関であるやすら浜港。後ろの山の斜面を見ていただきたい、道路が登って行ってるのがわかるはず。集落は尾根を越えてもっと高い位置にあるのだ。
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港からすぐ近くの斜面上にある浜集落。住んでいる家が3軒確認できる。下から入って行くとガジュマルのゲートがあり、そこをくぐると人家があった。
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右手に一軒、左手は空き家のようだ。門の代わりに二本の棒を立てて領域を示している。家は下見板張りにルーフィング防水の白い屋根。
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上から見下ろしたところ。
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その上の集落。ごろた石の石垣だ。
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ここにも敷地の領域を示す二本棒があった。
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浜集落から西海岸を北へ走らせる。「左は温泉」とサインが出ているように、この先に連続して「海中温泉」「湯泊温泉」「砂むし温泉」がある。一昨日の小宝島の熱湯露天風呂で懲りたので、入る気がしない。
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湯泊温泉。この中で着替えて、海岸の露天風呂に入るのであろう。営業は夕方から。
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広場みたいになっているのはキャンプ場。岩場の下に砂むし温泉がある。岩場の上では蒸気が上がっている。
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島の南西部にある大麦牧場。
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その先にある荷積(ちょんぼい)岬。斜面の歩道が崩落していて下っていけなかった。
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島の南東部根上山岬。ここらも周囲が牧場になっている。
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島の最高峰御岳(584m)。山頂近くの無線中継所までクルマで上がることができる。東から雲が駆け上がってくる。ガスってなければ、吐噶喇全島から屋久島・奄美大島まで見えるという。
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やすら浜・荷積岬を見下ろす。ここから集落を俯瞰する写真が撮りたかった。
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宿に戻ってランチを済ませ、島の主要な生活の場である上集落を歩く。悪石島の主産業は畜産で、島の各所に広大な牧場も見られるが、集落の中にも牛舎がいくつもある。
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いきなり不思議な場所が出現。ガジュマルの森に抱かれるように建物がすっぽりおさまっている。
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悪石島の観光キャッチコピーは「神々の訪れる島」。随所に神聖であり不思議な場所がある。この建物の入口にしめ縄のようなものがあったから、ここも神聖なる神の場なのだろう。
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道がいくつも分かれている集落の中心と思われる場所にある民家。民宿を営んでいる広い建物で、白いルーフィング屋根が折り重なっていて綺麗である。
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その隣に瓦の家があった。諏訪之瀬島の民宿の方が「吐噶喇列島はルーフィング屋根と便利瓦が多いよ」と言っていた。「便利瓦」とは何だろうか。彼曰く「屋根の形状の難しい場所にも対応できる形になっているところから、そう呼ばれている」のだそうだ。この家の瓦は普通の桟瓦だと思う。
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乙姫様と呼ばれる場所。
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ガジュマルの森の家。
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屋根はシンプルな入母屋ルーフィング葺、壁は下見板張り。これらも、生物境界線である渡瀬線を越えた隣の小宝島と違うのか。小宝島は、屋根は金属折板葺、壁は木板縦張りが多かった。ますます渡瀬線の文化境界線説が濃厚になってきた。明後日の宝島(最も南で奄美大島に近い)でダメ押しだ!
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また違う形態の神の場所だ。鳥居があって奥に樹林を背景とした社殿がある。板森神社という。
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牛を見かけなかったが、牛舎であろう。
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集落の中心エリアに戻る。鬱蒼とした鎮守の杜みたいな場所であるが、鳥居はない。樹木のトンネルを潜って入っていくと奥が広場のようになっている。ここは「テラ」と呼ばれる神域で、島の祭事が行われる場所。ボゼが作られる場所でもある。ここは最後に行くことにしよう。
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「テラ」の入口のある通り。石垣が続いていて、最初の広い民家のところに通じている。
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擁壁や塀が何でできているか確認できないほど植物に覆われている。
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公共建築は鉄筋コンクリート造。港の生コンプラントで生成されたのだろう。画像は、十島村立へき地診療所
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十島村立悪石島小中学校。
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九州電力悪石島発電所。
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コミュニティセンター(地元ではコミセンとよばれている)と簡易郵便局。コミセンの中に十島村悪石島出張所がある。フェリーのチケットは出港前日の16:00までにここで購入しておかなければならない。
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戦後本土復帰後の昭和30年代はじめに朝日新聞に連載され反響を呼んだルポルタージュ「美女とネズミと神々の島」記念碑。神々とネズミは見なかったが、実は美女を複数見かけた。
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(民宿二本松より)
再び宿に戻り一休みして、日差しが和らいだところで、先程パスした「テラ」に行ってみる。
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日も傾いたので暗くてちょっと入るのが恐い。ボゼが出てきたらどうしよう。
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広場のようになっていて、真ん中で段差があり、その上段に建物が一つポツンと建っている。隣は古い墓地や祭壇のようなものがある。どこからともなく、笛のような音が聞こえてくる。いかにも聖域という場所だが、同時にボゼが出てきそうで気色悪い。
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ボゼ祭りは、毎年旧暦7月16日に行われる。祭りの前夜は、島の男衆による踊りが行われる。本番の当日は男衆による盆踊りの後、太鼓の合図で仮面神のボゼが現れる。赤土のついたボゼマラと呼ばれる棒を持った来訪神であるボゼは、死霊臭漂う盆から、人々を新たなる生の世界へ蘇らせる役目を負っている。
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ボゼの仮面はこの「テラ」の中で作られ、「テラ」の中で土に返される。画像はかつて使用した仮面の残骸だ。
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朝の十島村放送。フェリーとしまが、定刻より早く小宝島を悪石島へ向かって出港したことが伝えられた。海が凪で早く運航しているようだ。
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悪石島を後にし、いよいよ列島最北端の口之島へ向かう。


by marunouchi_no1 | 2018-07-26 20:00 | 鹿児島県  

海界の村を歩く 東シナ海 諏訪之瀬島

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(鹿児島県十島村諏訪之瀬島)

吐噶喇の各島では、フェリーが隣の島を出港すると放送が流れ、皆それを合図に準備に取り掛かる。隣の島を出たぞ!港へ行くぞ!という具合。それを知らずのんびりしていたら「行きますよ」、慌てて支度し港へ向かった。
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小宝島発5:50→悪石島→平島→諏訪之瀬島着9:10と移動する。
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船の汽笛が鳴り、諏訪之瀬島に着くぞという時、船の後ろにイルカが現れた。
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悪石島〜平島〜諏訪之瀬島の海域は、高い確率でイルカに会えるという。まだ4回チャンスがあるので、今度はバッチリ撮ろうと思う。
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諏訪之瀬島切石港。離島では、船を降りると必ず宿の方が出迎えに来てくれているものだが、今晩お世話になる「民宿やまき」の方が居ない。それもそのはずで、乗降タラップを設置する作業をされていた(画像の黄色い人)。
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諏訪之瀬島
十島村の中で2番目に大きい。島の中央に799mの御岳があり、今なお噴煙をあげる活火山の島である。『日本書紀』の白雉5年(654)に「吐火羅国の男二人、女二人、舎衛(きえ)の女一人、風にあいて日向に流れ来たり」とある舎衛は諏訪之瀬島ではないかとの説がある。十島村の中でももっとも激しい活火山を抱くこの島は、過去何回となく大噴火を起こした。文化10年(1813)噴火はひどく、東村と西村の50戸あった人家は潰滅し、200余人の人々は悪石島・中之島へ移住した。中之島では在番が一部の人々を平島や臥蛇島・口之島に移し、ただ1人の死者も出さなかった。『拾島状況録』によると明治28年当時、旧墓地跡に埋没を免れた墓石若干あって、その1つには安政6年(1777)の年代と肥後市郎右衛門の名があったという。おそらく郡司墓であろうが、諏訪之瀬島も他と同じように肥後氏の勢力が強かった。諏訪之瀬島の本格的な開拓は明治期に入ってからで、奄美大島の藤井富伝らが明治9年7月の踏査経て、同16年4月に27人の有志を得て入植したことに始まる。翌17年10月の大噴火被災など幾多の困難を経て同28年には36戸に増えた。島の主神は八幡神で明治の入植後八幡神社が再興された。主峰の御岳のほかに村落近くの根神山などの旧名称が残っており、沖縄・奄美の影響を受けた信仰がしのばれる。現在の住民は奄美大島からの移住者の子孫と、安住の地を求めて移住してきた県外出身者で構成される。県外者は一時ヒッピー(他の住民からはパンヤンとも)といわれたことがあるが、現在はこうした新しい住民が中心となったユニークな島づくりが進められている。北西部の溶岩台地には手つかずのマルバサツキが自生し、春になれば一面赤とピンクのお花畑と化す。(「シマダス」参照)
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御岳火口の空中写真。現在、噴火警戒レベル2で立ち入り禁止になっている。この噴火口を見に行こう思ったのか、先日遭難騒ぎがあった。2日間捜索して見つかったそうだ。良かった良かった。
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民宿やまき。寄棟屋根の下見板張り。ここでまず「おや?」と思ったことがある。屋根材だ。小宝島では南西諸島お得意の金属折板屋根だったが、ここ諏訪之瀬島ではほとんど見かけない。そのかわり、シート防水材で屋根を包んでいる。この家もそうだ。
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なぜか。聞いてみれば答えは簡単かもしれないが、推察してみた。おそらく、御岳に関係しているのではないか。つまり、折板では火山灰が積もってしまうのであろう。シート屋根は真っ平らで、こっちのほうが厄介といわれている雨の日に積もった灰も、乾きさえすれば風で飛ばされ易い。さて、正解は如何に(答えはこのページの後半を参照)。
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諏訪之瀬島は緑が豊かである。
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海岸のごろた石を使った石垣があった。私がみた限り、この島ではここだけかな。
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このお宅は中々良い屋敷構えをしている。主屋と附属屋が下見板張りの板壁+白いシート防水屋根で統一されており綺麗だった。
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この集落景観が諏訪之瀬島の代表といえそうだ。
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諏訪之瀬島簡易郵便局。この左隣に十島村出張所がある。ここで明日のフェリーの切符を購入する。
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すわのせゲストハウス。コテージ形式の宿で自炊もできる。
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榊戸原(さかきどばる)牧区。視界が開けて気持ちのよい牧場だ。
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集落に戻って宿でランチをし、クーラーの効いた部屋で一服。猛暑は凄まじいもので、とても1時間半以上は続けて歩けない。午後は、集落から西海岸へ向かい、元浦港と飛行場滑走路を見に行く。
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十島村立諏訪之瀬島小中学校。門の脇に伝統的な草屋根のあずま家が復元されていた。
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草葺のあずま家から学校を臨む。
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これは御岳の火山灰だろう。諏訪之瀬島は桜島周辺のような灰まみれの集落ではなかったが、やはり降灰対策は大変そう。
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手書きの道しるべ。小中学校で作ったのかな。心が和む。
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西海岸の元浦港。遠くに見える島は平島。
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海岸まで一気に降りてきたのは楽だったが、丘上の集落へ戻るのはしんどそう。強烈な日射の中、上りは相当キツかった。
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空港滑走路の下のトンネル。ここで一服。
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飛行場への道が分岐している。
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途中に九州電力の発電所がある。
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諏訪之瀬島飛行場の滑走路。バブルの時、ヤマハリゾートが南西諸島のいくつかの島をリゾート開発しようとした。諏訪之瀬島もその一つで滑走路まで建設された。
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折角造った滑走路は使われておらず、Hマークのついた緊急時のヘリポートとして使われているだけ。ここからの眺め、特に夕陽が素晴らしいという。
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御岳もここからよく見える。下の写真は噴火した時のもの。2013年の写真であろうか。
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さて、屋根の問題。民宿の方に聞いてみた。
不正解✖️。答えは錆びないからで火山灰とは関係ないそうだ。
屋根材はルーフィング、いわゆる瓦葺きとかの下地に施す防水シートで、単に瓦を葺いていないだけである。金属折板葺きは錆びて長持ちしないという。そして、ルーフィングの上にはコールタールが塗られている。綺麗なのは、毎年補修しているからだそうだ。
ところで、小宝島は金属折板屋根だった。奄美地方は金属折板が主流だから、奄美から供給されたのであろうとのこと。小宝島は奄美大島からの方が近いから。小宝島と悪石島との間には、渡瀬線という生物境界線があるが、文化もここで切り替わっているのであろうか。
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諏訪之瀬島を後にし、いよいよ悪石島へ。
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ところで最新の台風情報。恐れていた台風12号は幸運にも東へ向かった。吐噶喇を避けるようにカーブしている。本州直撃は心配だが、この旅の心配はこれでなくなった。最後まで行けるか!



by marunouchi_no1 | 2018-07-26 08:40 | 鹿児島県  

海界の村を歩く 東シナ海 小宝島

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(鹿児島県十島村小宝島)

入社30年目のリフレッシュ休暇として10日間をもらい、鹿児島県十島村<吐噶喇列島>の全島制覇を企んでいたが、初日に乗るはずだったフェリーが台風10号のために欠航してしまった。渡航困難度Sクラスとうたわれた吐噶喇列島である。簡単には受け入れてくれない。あらかじめ用意していた代替案の天草諸島を3日でこなし、吐噶喇列島唯一の交通機関であるフェリーとしまの7/23(月)便の運行決定を待っていた。
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十島村ホームページのフェリーとしまの運行状況ページが更新され、条件なしの出航が決定した!これで念願の吐噶喇列島へ行ける!
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この後台風が来なければ3往復するフェリーを乗り継いで5島(上図✖️の平島・中之島以外③〜⑦)を歩くことができる。まだ予断を許さないが、とりあえずホッと胸をなでおろす。
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鹿児島港南埠頭で南西諸島行きフェリーは発着する。マッサージをタップリ受けて銭湯にも入り準備完了。切符発売の19:00にフェリーの待合所窓口に行った。今回、直前での変更だったので、寝台が取れず二等しか予約できなかった。窓口で指定席が割り当てられ、降りる港ごとに客をまとめていた。
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これが二等、いわゆる雑魚寝部屋だ。とはいえ場所は指定席になっていて、荷物棚と隔て板が備わっている。敷きマットの幅は800mmくらいだから、隔て板が無かったら隣の人の顔が目の前にくる感じ。隔て板で最低限の快適さが保たれている。
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最初の寄港地である口之島は着5:00(定時)だから真っ暗。口之島から中之島に行く途中で朝陽が上った。
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中之島着6:00(定時)。台風10号のせいで、今回この島には降りられない。
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中之島・諏訪之瀬島間から振り返って中之島を眺める。洋上の富士山だ。
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諏訪之瀬島着7:10(定時)。列島唯一の活火山の島。
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平島。名前と反して全然「平ら」ではない。平家伝説があるから平島なのだ。しかし、吐噶喇列島はどの島も急峻で、とても人が住んでいるとは思えない様相ばかりだ。
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平島着8:10(定時)。ここも今回行けず。平島Tシャツを着たスタッフが乗降デッキを準備しているが、なかなか船の動きがおさまらない。平島と小宝島は港の条件が悪く、波の具合でランプウエイ(車両乗降用)が下ろせなかったり抜港されたりする。今日のような比較的良い日でも船揺れがおさまるには時間がかかる。ところで、スタッフとはいっても船会社の方ではなく、島民の方々が手伝っているのだ。
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奇祭ボゼで有名な悪石島。「悪」とはすごい名前だ。聞いただけで行きたくなってしまう。
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悪石島着9:15(定時)。出た「悪」Tシャツ。如何にも悪そうだ(冗談)。こんな地名やっぱり珍しいでしょ。
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そして、吐噶喇列島最初の上陸地である小宝島が見えてきた。妊婦が仰向けに寝転がっているように見える島影と聞いていたが、本当にそう見える。
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小宝島着10:45(定時)。予定より遅れて11:30着。鹿児島港を出て12時間だ。
今まで見てきた吐噶喇の島々と比較して、この島は小さく山も低い。
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フェリーとしまは、最後の寄港地宝島目指して港を離れた。奄美大島の名瀬港でしばし停泊したのち折り返し、明日の朝5:50に再びやってくる。それまでが、小宝島探訪の時間だ 。
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小宝島
宝島の北東約15kmにある吐噶喇列島の南から2番目、隆起サンゴ礁でできた周囲3kmほどの小さな島。かつては「島子」「島子島」と呼ばれていた。島に上がればアダンやガジュマルが繁り、道路脇にはハイビスカスが咲き、心和む佇まいを見せている。ウネガミ、オオブチ、モガイといった立神奇岩がそびえ立ち、平家の落人が隠れ住んだという大岩屋の洞窟がここにもある。サンゴ礁の割れ目では、色鮮やかな魚が泳ぎまわり、ちょっと離れた洋上の小島では、無人島体験もできる。(「シマダス」参照)

小宝島はゆっくり歩いても1時間弱で一周できるほど小さい。猛暑の中、いざ取材開始。
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集落の中のメインストリート。ハイビスカスが咲いていて綺麗だ。
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今宵お世話になる「民宿いこいの森」の別宅、92歳のおばぁちゃんの家。この島では古い方だと聞いたが、戦後の民家。吐噶喇列島は沖縄と同様、戦災にあっているので、この島に戦前の建物は一切ないといわれた。
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これが吐噶喇の民家だ。とてもシンプルな寄棟の平屋建。金属折板屋根は、鹿児島県内の離島民家の現代のスタイル。
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石塀やブロック塀で敷地を囲む。
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琉球の集落みたい。珊瑚石の野積の石垣石塀が残っている。
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建物の方は、屋根が寄棟に金属折板、壁が木板縦張りである。
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島全体が岩石でできている。小宝島の民家は、50年くらい前まで草葺屋根だったという。背後の山の上から竹を刈り取ってきて、それを屋根材として葺いたそうだ。
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十島村立小宝島小中学校。校舎の後ろに見える岩は赤立神。人口の少ない離島では、大方このように小中学校である。今時の小中一貫教育を昔からやっている。島の子供達は中学卒業と同時に島を離れていく。
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小中学校の前から海岸沿いに近代的な建物が並ぶ。十島村立小宝島へき地診療所。
ちなみに村民の健康診断は年一回5月に実施されていて、「レントゲン船」と名乗る船便が運行される。各島を約2時間づつ停泊。レントゲン車が出てきて、人もペットも健康診断を受ける。この便、2日間で往復し、各島を2時間停泊するので、2日間で全島巡るツアーも同時に企画されている。
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簡易郵便局と十島村出張所。フェリーの切符は前日にこの出張所で購入しておかなければならない。
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鉄筋コンクリート造の住宅が並ぶ。教職員住宅のようだ。
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小宝島温泉センター。夕方、ここに入ろうと思って扉を開けたら使われていなかった。前に事故があってそれっきりだとか。
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集落内のメインストリートに戻る。珊瑚石の石垣石塀は沢山ありそうだが、植物に覆われていて確認できない。
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この家も古そうだ。屋根はチョイ入母屋で波型折板の白塗装。しかし壁は木板である。南西諸島の鹿児島県内は壁から屋根から全て折板という仕様の民家をよく見る。これをカッコいい建築だなぁと思うのは私だけか。
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鉄筋コンクリート造の民家。軒庇に水が侵入して鉄筋が錆びてコンクリートが爆裂している。塩害が厳しいのだろう。
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小宝島の集落は平らな場所にあるから津波に弱いだろうと思っていた。でも海抜9mある。そこそこ大丈夫そう。ちなみに海岸には防波堤はなく、津波避難路も無かった。
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ハイビスカスの道。
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パイナップルみたいな木があると思ったら、入り口になっていて、奥に鳥居がある。
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鳥居の更に奥に石碑があって、平仮名で「ごんげん」と書かれている。琉球の御嶽にような場所か。でも、トカラハブに噛まれたくないので入らなかった。
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湯泊温泉。ここは湯泊港という入江があって、そこを見下ろす位置に露天風呂がある。
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入口にサインがあるので入る時は注意。この手の露天風呂にはあまり興味のない私だが、とても綺麗にしてあって入ってみたいと思った。島を一周した後、タオルと着替えを持って行った。画像では手前が湯船で向こう側に広い洗い場があるように見えるが、実はそこも湯船。横に渡してある板は湯船の蓋で、それを外して入るのだ。
私、洗い場だと思い込んでズカズカと蓋の上を歩いてしまった。蓋がしっかりした材を使っていたので助かったが、もし折れたりしたら、熱湯の中にドボン、大火傷を負うところだった。
湯はとてつもなく熱いので、ホースで海水を入れて湯温を調節する仕組み。大きな湯船の温度を簡単に下げられる訳はなく、水を体に当てながらちょっとだけ浸かった。
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島を半周すると奇岩が沢山ある場所になる。隆起した珊瑚石が風や波で削られたのだという。この岩、ゴジラみたいといわれているが、どっちかというと可愛い感じがする。今注目の「シャンシャン岩」というのはどうだろう。
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小宝島も平島と同じく平家伝説がある。画像は、大岩屋と言われる洞穴で、平家が隠れたという伝説がある。
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フェリー発着する小宝島港。隆起珊瑚礁の島には川がないので泥が流れず海が綺麗。遠くに見えるのは宝島。
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吐噶喇列島七つの島の港には必ずこのコンクリートプラントがある。
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赤立神。珊瑚石でできた浜辺。海水浴場になっている。

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民宿で食事を終えたら、おかみさんが「月見に行くぞ」とフェリー乗り場の突堤に連れて行ってくれた。常連客と島の方々で夕陽見・お月見をしながら一杯やってる。そこに合流させてもらった。しばらくすると月の明かりだけになる。月や惑星のなんと明るいことか。そして、遠くの宝島の街灯も明るく見える。こういうことは小さな離島でなければ体験できないことである。一生忘れられない時間となるだろう。

by marunouchi_no1 | 2018-07-24 22:00 | 鹿児島県  

海界の村を歩く 東シナ海 御所浦島・横浦島

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(熊本県御所浦島御所浦)

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昨夜歩いた本渡の不思議な商店街は、やはり大火復興の街だった。1964/10/25未明に発生した火事は、中央商店街をほとんど焼き尽くしたという。
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早朝スタートで、本渡の大火復興の街を歩く。まずは、中央銀天街というアーケード街から。
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アーケード街の反対側へ振り返ると明らかに1964年以前と思われる町並みだ。大火復興の町並みは周りとの対比がポイントとなる。古い民家が残る街の中で、そこだけ昭和40年代という時代の純度が高い町並みが見られるのだ。
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アーケード街の町並み。戦後昭和ですなぁ。
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銀天街の一本西側の大通り。歩道上がアーケードになっていて、大火や戦災復興都市でよく見る防火建築帯のような建物が並ぶ。だが、統一されている訳ではないので、いわゆる防火建築帯ではないだろう。
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諏訪神社の参道沿いの石塀。
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祇園橋という石橋。
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大通りから入ったところにモダンな建物が!一瞬映画館かと思ったけど、銭湯だね。背後に煉瓦煙突がある。
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さて、本日の主題に取り掛かろうか。八代海に浮かぶ御所浦島と横浦島だ。昨日渡った鹿児島県の獅子島の北側にある。
御所浦島
大崎上島の南東5km、御所浦町内有人3島の中で一番大きな島。御所浦とは、景行天皇の西国巡幸時に行宮が置かれたという伝説にちなむ地名だ。6集落が点在し、いずれも家が密集している。島の周辺には、養殖イケスが点在し、全国の離島の中でも屈指のタイとトラフグの養殖規模を誇る。温暖な気候を利用して甘夏ミカンを中心とする柑橘類の栽培も盛んである。地質的に歴史が古く、平成9年には島内の白亜紀の地層から国内最大級の肉食恐竜の歯の化石を始め草食恐竜の骨の化石やたくさんの貝の化石が発見された。「全島まるごと博物館」をテーマにした町おこしを展開中だ。古くはタタラ製鉄が行われていた地区もある。島の中央、標高442mの烏峠からの眺望が素晴らしい。(「シマダス」参照)
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石垣石塀で知られる旧倉岳町棚底港から渡船が出る。
棚底http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/kumamoto_data/tanasoko/tanasoko_file.html
渡船はフェリーと高速艇があり、他の港からの渡船も合わせると割と頻繁に出ている。
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8:10発のフェリー御所浦で渡った。画像は御所浦島の御所浦港。
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港ではいきなり恐竜がお出迎えだ。なんで?
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天草は地質が古いところだそうで、御所浦島では珍しい化石が発掘された。それもあって、島おこしとしてジオパークで売り出している。資料館ではとても詳しい展示がなされており、ガイドの方もいた。そっち方面に興味があればメチャ楽しいのだろうが、私は集落が目的である。
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資料館の階段室から眺めた集落景観の方に惹かれる。
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その集落を端から入っていく。このブログやサイトで散々書いていることだが、集落はメインストリートから入るのが鉄則である。メインの通りには大抵名主クラスの見応えのある古民家があるし、メインから主編へと順に歩くことで集落の構成を理解しやすくなる。
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しかし、私はついつい端から入ってしまう。分かっていても治らぬ習性だと思っていただきたい。
集落は出来るだけ平地を造るべく、周囲を石垣やコンクリートの擁壁になっていた。
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そして、メインの縦道(海岸線対して垂直)。
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ほうら、立派な家が並んでるじゃないか。
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曲がり角とお地蔵さん
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屋根が見事な造りの家
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御所浦港をぐるっと移動
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するともう一つのメインの縦道があった。神社に行き着くので、この道が一番メインかな。丸石の石塀が続くお屋敷。
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神社前の一角。
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古いわけではなさそうだが、ガッチリと玄関を備えた大きな家が並ぶ。漁業で潤ったのだろう。
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路地の風景。鏝絵の家があった。
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御所浦地区から北へ3kmの嵐口(あらぐち)を目指してテクテク歩く。今年の夏は観測史上トップクラスの猛暑だそうで、かなりキツイ。途中、町営の図書館があったので一服して体を冷やした。
嵐口は斜面上の密集系漁村集落。
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画像のような石垣があったりして中々良いが、時間がなく、くたびれているのもあって、全ての道を歩くことができなかった。
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嵐口港から横浦島横浦港へ高速艇で渡る。
横浦島
天草上島の南1kmに位置する。魚類養殖業と海運業が盛んな島で、与一ケ浦と横浦の2集落に住宅が密集する。以前はカツオ釣り漁船の餌イワシの基地として賑わいを見せていたが、現在は養殖業への転換で一部を残すのみとなっている。春から夏にかけてエビ漁が最盛期を迎え、加工用・一本釣りエサ用として利用される。御所浦島とを結ぶ御所浦第二架橋(長さ900m)が平成12年度から建設着工している。(「シマダス」参照)
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一見して家々が新しい。戦後に漁業で栄えた印象である。
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同じような構えの家並み。
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家の前には一軒一軒に恵比寿様が祀られていた。恵比寿様は漁業の神様である。
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ちょっと変わった破風。なんでヌメッとしてるのかなぁ。
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立派な造りの家が並ぶ。漁業で潤った感がここ横浦島にもある。
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巨大な恵比寿様。
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島を半周した与一ヶ浦地区。猛暑の中3km歩いてもうダメだ。集落をやっつけ的に歩く。
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くたびれて解説文も思い浮かばない。
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内海の干満の差が現れた突堤。
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この後、まだ3ヶ所予定していたが、もう歩く気がしないので、早々と宿に入った。

by marunouchi_no1 | 2018-07-23 20:00 | 熊本県  

海界の村を歩く 東シナ海 獅子島

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(鹿児島県獅子島黒崎)

天草諸島の獅子島をタイトルにしておきながら、南西諸島吐噶喇列島の話からはじめるのには理由がある。吐噶喇列島という場所が日本にあることをご存知だろうか。この難しい漢字「吐噶喇」と書いて「トカラ」と読む。
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南西諸島の屋久島と奄美大島との間に、小さな有人島が7つ並んでいる。口之島から宝島の更に南の横当島(無人島)まで160km、十島村という日本で最も長い村でもある。そして、同時に渡航困難度が最高レベルの離島群でもある。入社30周年のリフレッシュ休暇をもらい、有給休暇をプラスし10日間かけて、この列島を制覇をしようと企てた。鹿児島港を出航するフェリーとしまは、北から順に7つの島に寄港し、奄美大島名瀬港で折り返して今度は逆に7つの島に寄りながら鹿児島港に戻る。吐噶喇への交通手段はこのフェリーだけだから、上り下りを繰り返しながら島を訪ねることとなる。通常は週2便のため20日間かかるが、7月最終週は臨時便が出るので、10日間で駆け抜けることができるのだ。マップの数字は上陸する島の順番を示している。
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今年の4月から投入された新しいフェリーとしま2は船が大きくなり、欠航率が下がった。6月7月は台風が来ているにもかかわらず、1度しか欠航していなかった。しかし、、、旅立つ5日前に熱帯低気圧が発生した。
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九州上空に鎮座する太平洋高気圧に押されて北上を抑止されていたが、私の乗る予定の船が出る7/20に狙いを定めるように北上開始。順延出航も期待したが、結局「欠航」となってしまった。トホホ、泣きたいよ。
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こんな事になった場合を想定して、代替案を用意している。先月の口永良部島でも台風にやられ東北へ変更した。よっぽど南西諸島は私のことを嫌いなようだ。気を取り直して前半は天草諸島の架橋のない離島を歩く。
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鹿児島空港でクルマを借りて、夜に川内に着いた。夕焼けが綺麗だから明日は雨かな。長島諸浦港から獅子島経由で天草下島へ渡る予定である。
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天草諸島はほとんどが熊本県だが、天草下島と九州本土の間の八代海に浮かぶ島々の内、獅子島以南は鹿児島県に属する。

獅子島
長島の北東、伊唐島の北にある島。標高393mの七郎山が最高点で丘陵地形をなし、斜面には甘夏みかん畑が広がる。入江ごとに集落があり、恵まれた地勢、自然条件を生かしたブリ・タイなどの養殖業や、まき網、ごち網漁も盛んである。室町時代、獅子島の領主唐津藩士の子孫の獅子谷七郎であったと伝えられている。当時は肥後領土だったが、永禄8年(1565)薩摩藩との戦に敗れ島津の領有地となった。前領主の姓をとって獅子島の島名がつけられたという。化石の島としても知られ、アンモナイトなど多数の化石が出土している。(「シマダス」参照)
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諸浦港から獅子島を経由して天草下島へ向かうフェリーの1便。タンク車やダンプ、材木を積むトラックなど仕事車がほとんど。ちなみにフェリーは天草下島まで行くが、全ての車両が獅子島で降りた。
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船が着いた片側港(かたそば)から島の西海岸北方にある平野・御所浦集落へ行く。
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平野地区を高台から見下ろす。なかなか良さそうで、川に沿って集落が形成されている。
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この川と橋と民家の関係。映画「八つ墓村」の32人殺しシーンに出てくる集落に似ているぞ!(実際のロケ地は滋賀県余呉町鷲見)。
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うーむ似ている。村の人らが私を不審者と疑うような目で見ている。なんだか怖い。
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これが古い民家の形態であろうか。入母屋瓦屋根(セメント瓦)。2棟が寄り添う形が良い。
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ここも2棟が寄り添う。
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お地蔵さん?
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村のスーパーマーケットか。獅子マート。
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片側と御所浦との間にある黒崎集落。
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獅子島片側港。天草下島へ渡る。
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天草諸島最南端の街である牛深のコンビニにて。雨が激しく降って来た。この熱した大地を冷やしてくれ!
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牛深からハイヤ大橋というカッコいい橋で下須島へ渡る。この橋、建築家レンゾピアノと岡部憲章によりデザインされた橋。しかし、下須島へ渡るためにこんな大げさな橋が必要なのかなぁ。
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下須島天附集落。対岸の牛深と同様にいくつもの入江に集落が形成されている。
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尾根を超えると隣の集落へ。
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一番奥のところにこんな立派な古民家があった!海鼠壁と漆喰白壁の家。
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八角形の海鼠壁は熊本県の特徴。立派だ。
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入江谷の最奥部で坂道になる。
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また別の道。古い井戸があった。
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ここにも井戸。周りが石畳になっていて、洗い場が形成されてる。また、このように茅葺鉄兜の古民家がチョイチョイ残っている。
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牛深を後にし、天草下島の西海岸を北上する。途中の崎津集落。内海に教会をシンボルとした集落で、私の好きな集落のひとつ。サイト〈集落町並みWalker〉のインデックスページの一番上の背景はココ。今や集落が世界遺産となり大騒ぎだ。
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天草下島の北端近くにあって橋で渡れる通詞島。以前やり過ごしてたので再訪だ。
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集落は横に長く裏はすぐに斜面となっている。
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メインの横道を辿ると切石石塀のお屋敷があった。
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石積みの塀を巡らす家。通詞島とは由緒ありそげな名前だ。
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ここにも洗い場の石畳を巡らす六角井戸があった。
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さらに天草下島の集落探訪を続ける。島の北部真ん中あたりにある御領という町。戦国時代に志岐氏の支城があり、地域の政治の中心だった。
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丘の上が城址だそうで、そこに大きな芳証寺の境内となっている。上に画像は旧名主のお屋敷だが、とても立派な石塀が見られた。
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切石のディテール。とっても綺麗だ。
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芳証寺の石垣と土塀。
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旧街道沿いには古い町家が残る。草葺鉄兜の民家も多い。
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芳証寺前に並ぶの石像群。
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今宵の宿泊は天草一の経済中心都市である本渡。寿司屋に行った帰りに商店街を歩いてみた。島なのにアーケード街があるぞ!しかも「銀天街」!
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「銀天街」とは、九州のアーケード街で共通して使われている名称で、発祥は小倉だと言われている。そして、もう一つ共通しているのは、戦災復興都市であること。つまり、戦災で焼失した中心市街地の商店街の復興のシンボルが「銀天街」というアーケード街なのである。
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しかも形の似通った二階建ての不燃建築が並んでいる。
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裏には定番のスナック街。ひと通り歩いて言えることは、戦災復興商店街みたいということ。でも、天草が空襲受けたとは思えない。
もしかして、大火?

by marunouchi_no1 | 2018-07-22 22:00 | 鹿児島県  

海界の村を歩く 太平洋 陸前大島

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(宮城県気仙沼市大島)
東北三陸の島旅、2日目は気仙沼からスタートする。
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今日の目的地は東北地方最大の島である陸前大島(気仙沼大島)である。今晩の宿を島内の国民休暇村としたので、島へはゆっくり渡れば良い。まずは、大島の東側に横たわる唐桑半島から探訪することにしよう。
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半島北東にある海中公園・巨釜の上の駐車場から見たリアス式海岸。ここは3.11の震源地に最も近い場所である。押し寄せた大津波がしぶきを上げて断崖にぶつかったであろう様を想像する。
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西岸にある鮪立集落の全景。マグロ漁で財を成した御殿が建ち並ぶ集落だ。以前訪れているのでDataBaseを参照されたい。
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唐桑半島は丘陵地形で、丘の上に集落が点在する景。唐桑半島ではあまり古い建物を見かけない中、画像の古民家があった。長屋門と寄棟の直家だ。
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中井地区の町並み。
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入母屋赤瓦が特徴である。
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中井地区の理容所大畠。いい感じの看板建築だ。
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陸前大島に渡る前に陸前高田・大船渡界隈の気仙大工のつくった集落の取材に向かう。
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陸前高田の気仙川河口の水門。津波が来た時に閉鎖する。陸前高田のかさ上げ工事は、すでにベルトコンベアが撤去されていた。かさ上げされた上の市街地建設はこれからだ。
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陸前高田市小友町の気仙大工左官伝承館。移築された気仙大工のつくった古民家が屋外展示されている。
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そして、大船渡市野々前。この地域に分布する気仙大工による集落のひとつである。
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匠の技が素晴らしい。
ところが、野々前を取材していたら、お巡りさんがやってきて職務質問された。最近、空き巣があったそうである。物騒な事件も多いゆえやむなしだが、いい感じはしない。
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気仙沼に戻ってきた。これから午後一番のフェリーにクルマを乗せて、陸前大島へ渡ろう。
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「海界の村を歩く」シリーズでは、基本的に本土と橋で繋がっている島は、もはや離島ではないので対象としていない。実は、陸前大島はもうすぐ大橋が開通する予定である。震災の時に孤立した経験から、念願の橋建設が急ピッチで行われた。今回の取材は、離島のうちにと慌てて計画されたわけである。
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陸前大島
宮城県北東部の気仙沼湾内、本土から航路距離7kmに位置する東北地方最大の島。島内には縄文時代の磯草貝塚や浦の浜遺跡があり、『三代実録』(901年)や『延喜式』(927年)に大島神社が記されている。古くは「薬師島」いわれた。海岸線は出入りが激しく、北部には235mの亀山がそびえており、全島が一望できる。風光明媚な自然は陸中海岸国立公園と海中公園に指定されている。亀山リフト、国民休暇村のプールやキャンプ場、海中公園のグラスボートなどの観光施設も整備され、多くの観光客が訪れる。周辺の海は水産資源に恵まれ、沿岸漁業とワカメ・カキなどの養殖が盛んで、基幹産業となっている。(「シマダス」参照)
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上記の「シマダス」の解説文では、観光の島・養殖の島というイメージであるが、震災によるダメージは大きく、以前より賑わいも大きく失われてしまったようだ。
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さて、島の集落を見ていこう。画像は要害地区の板倉。シンプルながらデザイン的に良くできている。
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要害集落の町並み。
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長崎集落の町並み。赤い屋根で統一されている。
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亀山山腹から大島南方を眺める。丘陵地形に赤い屋根の集落が点在しているのがわかる。
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島北端の外浜集落。
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外浜集落と唐桑半島との間の大島瀬戸。3.11大津波の際は、気仙沼で流れ出した油に引火し、火の海になったという。地獄絵図のように恐ろしかったと言われている。
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翌日、陸前大島を後にし、仙台より南の陸前浜街道(国道6号線)沿の町を歩いた。
画像は、亘理の町並み。このエリアの特徴であるなまこ壁が見られる。
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南相馬市の原ノ町。旧街道沿いの蔵造り系の町並みと映画館の建物が残っていた。
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そして更に南下し、浪江町の街を通る。大津波で被災した福島第一原発の避難区域が解除された浪江町であるが、旧街道沿いの商店や住宅は皆無住の状態だった。
そして、帰還困難区域は常磐自動車道と国道6号線バイパスのみが通行可能。バイクや自転車はNGでクルマのみが通れる。沿道の町は、2011.3.11で時間が止まっていた。

by marunouchi_no1 | 2018-07-02 21:00 | 宮城県